プロ野球亭日乗BACK NUMBER
ついに殿堂入りを果たした落合監督。
野球人としての行く着く先は……。
text by
鷲田康Yasushi Washida
photograph byNaoya Sanuki
posted2011/01/26 10:30
史上最多となる3度の三冠王獲得(1982年、85年、86年)をはじめ、広角に打ち分ける独特の打法で数々の記録を樹立。監督としても7年連続Aクラスと手腕を発揮している
いつも「権威」や「力」に背を向けてきた、と言われている。
確かに高校時代は学校に背を向けた。だからしょっちゅう授業をさぼり、映画館に通っていた。いつも一番後ろの右端に座り、南北戦争で没落した南部貴族の娘、スカーレット・オハラの波乱万丈の半生を描いた『風と共に去りぬ』を観るのが大好きだった。
大学に進むと野球部に所属したが、体育会的な気質に背を向けた。わずか半年で退部して、ブラブラしていた頃には、プロボーラーを目指したこともあった。
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そして東芝の府中工場で季節工として働いたのをきっかけに、再び野球と出会った。社会人野球でメキメキと頭角を現し、1978年のドラフト3位でロッテに入団した。
しかし、ここでも球界の常識には、背を向けて生きた。
1年目のキャンプで元監督に打撃を酷評され、コーチの声にも背を向けた。独特の打撃理論で3度の三冠王を手にすると、「選手は個人事業主」と選手会労組にも背を向けた。
監督になっても、ワールド・ベースボール・クラシックに背を向け、チームがペナントで勝つことのみを価値として追い求め続けている。勝利至上主義はファンという見えない力にも背を向けているとも言われてきた。
球界の常識に背を向けつづけた落合監督が手にしたものとは?
そんな中日・落合博満監督が、ついに野球殿堂という「権威」を手にした。
「私はユニホームを着ている間は、この賞とは無縁だろうと思っていました。ユニホームを脱いでから、いつかもらえればいいなと思っていた」
受賞の会見で落合監督は、静かにこう語ったという。
選手時代の実績は、あのONと比肩することは誰もが認めるものだった。しかしその文句ない実績にもかかわらず、この2年、続けて1票差で殿堂入りを逃したことは、記者投票というシステムの在り方に大きな波紋を投げかけるものとなった。
マスコミという「権威」に背を向け、その「力」にそぐわなければ評価を得られない――特に地元でもある名古屋の記者クラブ所属記者の票が、あまり入らなかったことが、余計にこの印象を強くするものとなった。
「どうせなら3年連続1票差で落選した方が面白かったんじゃないか。他人がやらないことをやるのはいいことだ」
スピーチではそんな経緯も、らしいコメントで笑い飛ばした。ただ、ゲストスピーチでOBの杉下茂さんはこう断じている。
「もっと早く入って然るべきだった」
そういう意味では、やっと正当な評価を受けて、落合監督は殿堂入りを果たしたということだった。