プロレスのじかんBACK NUMBER
今度はベルトが俺を追いかける。
新IWGP王者、内藤哲也の生き方。
posted2016/04/19 10:30
text by
井上崇宏Takahiro Inoue
photograph by
Masashi Hara
内藤哲也が少年時代から抱いていた新日本プロレスのレスラーになるという夢。ずっと新日本に憧れ続け、ついにその夢を叶えたデビュー戦の日からおよそ1年後、ひとりの選手が他団体から新日本プロレスに移籍をしてきた。
そのとき、内藤は「これはちょっと違うだろ」と思った――。
「王貞治さん、長嶋茂雄さん、アントニオ猪木さん。この3人のことは絶対に“さん付け”で呼びなさい」
内藤は、物心がついた頃から父親にそういう“教育”を受けてきた。
要するに父親はプロ野球とプロレス、とくに読売ジャイアンツと新日本プロレスの熱狂的なファンだったのだ。この3人のうちの誰かのことをつい呼び捨てして呼んでしまおうものなら、本当に本気で叱られた。
毎日、内藤家のテレビには野球中継が映っていて、録画したプロレス中継は親子で一緒に観ることが当たり前のような生活だったが、内藤は、王さん、長嶋さんという人たちが活躍していたという野球よりも、猪木さんの作った新日本プロレスの虜になった。
生まれつき、たとえば自転車は最初から補助輪なしで乗れたほど、運動神経が抜群だった。スポーツが大の得意で快活な性格だから、小学校では常にクラスの中心にいる、よく目立つリーダー的存在だった。
だけど、学校のクラスというスケールなんかよりも、はるかに大きな世界の中で目立ちまくっている男がいた。
新日本のリングで“スペース・ローンウルフ”と呼ばれていた武藤敬司である。
プロレスといえば新日本プロレス!
ルックスも、入場の仕方も、繰り出す技も、そのすべてが華やかでキラキラと輝いていたから、武藤は多くの人から応援をされ、愛されていた。運動神経も自分よりはるかに良く見える。内藤は武藤敬司に憧れた。
この頃には父親の教育と自分の嗜好とが相まって、「プロレスといえば新日本プロレス。新日本プロレス以外はプロレスにあらず」という思想をすでに持っていた。
将来、自分も新日本プロレスのレスラーになることをはっきりと決意したのは中3の時。1997年6月5日の日本武道館大会を、友達とサッカー部の練習をサボって観に行ったときのことだ。