プロレスのじかんBACK NUMBER
“耐死仕様”の破天荒なプロレス!
帰ってきた飯伏幸太の物語は続く。
posted2016/04/08 18:20
text by
井上崇宏Takahiro Inoue
photograph by
Essei Hara
昔、映画監督のクエンティン・タランティーノが車を買い替えようとしたとき、「安全重視でボルボにしようと思ってる」と友人の俳優に相談をしたそうだ。
するとその友人は、「どんな車でも好きなのを買ってスタントマンに預ければいい。そうすれば車を“デス・プルーフ”(耐死仕様)に改造してくれるから」と答えたらしい。
ゴールデンスター・飯伏幸太はプロレスデビューする前、アルバイト先で「OPG(俺たちプロレス軍団)」という社会人プロレスの集団と出会った。
プロレスファンの大人たちによって組織されたOPGは、メンバーでお金を持ち寄って自前のリングを作り、なんと道場まで持っていた。本気で“プロレスごっこ”を追求する者たちだった。
人見知りの激しい飯伏も、そんなOPGのメンバーの輪の中にはすんなりと溶け込むことができた。そこまでプロレスが大好きな大人たちとは、それまでの人生では出会ったことがなかったから、彼らと接することは喜びですらあった。
小学生の頃からやっていたプロレスごっこに自信。
すでにDDTには練習生として入門していた飯伏だが、当時のDDTの合同練習は無意味と悟り、すぐに行かなくなった。
「こんなにレベルの低い練習を、なんで俺がやらなきゃいけないんだ。これなら自分で独自にやる練習のほうがいい」
それ以来、飯伏はずっとOPGの道場に通って練習をするようになる。新日本プロレスとの2団体所属時代も、新日本の合同練習に参加したことはない。
現在も練習場所は、“プロレスごっこの穴”OPGである。
しかし、そんな飯伏の行動をわがままと受け取った周囲のレスラーたちは態度を硬化させた。まだデビューもしていない一介の練習生から、自分たちの練習のやり方を否定されたのだから当然の話だ。しかし、飯伏は小学生の頃からやっていたプロレスごっこで培った独自の技のかけ方、受け身の取り方には異常に自信を持っていたから、頑として態度を変えることはなかった。