プロレスのじかんBACK NUMBER
全人格をさらけ出して戦う内藤哲也。
ついに覚醒した“絶対音感”の男。
text by
井上崇宏Takahiro Inoue
photograph byEssei Hara
posted2015/10/20 18:20
すっかり悪役が身についてきた内藤。試合会場に吹き荒れるブーイングを、むしろ楽しそうに味わう余裕まで出てきた。
身体能力だけでは新日本ではトップになれない!?
棚橋は運動性という意味では内藤に劣っているかもしれないが、感受性の部分でははるかに上回っていた。それは中邑真輔も同じだ。軽く掘ると、その棚橋と中邑も、かつては運動性に頼っていた時期があった。当然、ファンからの支持は思うように得られず、彼らも内藤と同じく迷っていた。はじめに運動性ありき。新日本プロレスでは誰もが通る道かもしれない。
先だっての10月12日。両国国技館大会の試合前に新日本OBである前田日明がリングに上がり、ファンにメッセージを送った。
「プロレスというのは定義がない世界ですから、これからもいろんな選手が出てくると思います。(中略)選手はリングの上で全人格、全人生をさらけ出して闘いますので、どうか応援のほどをよろしくお願いします」
全人格、全人生をさらけ出して闘う。定義のないプロレスにおける、前田なりのプロレスの定義。おそらく今昔問わず、多くのプロレスファンたちにとっても、この定義は正解だ。
制御不能となった内藤が、全人生をさらけ出した!
プロレスファンとは、全人格を受け入れる能力、全人生を感じ取る能力に長けた者たちである。プロレスというものを、ほぼそこだけにピントを合わせて見つめている者たちだ。
棚橋も、そして中邑も、いつしか己の人格と人生をプロレスという行為を通じて全部さらけ出すようになった。それを中邑は「心を開放する、感覚を開きまくる、フルチンになる」と表現する。それにより、プロレス界のトップに躍り出た。
オカダ・カズチカのように、超人的な運動性の高さだけで強引に頂上に登り詰めるという現象は極めて稀なケースだ。感受性の豊かなプロレスファンたちはそんなすべてをさらけ出す彼らを仰ぎ見る、リスペクトするのだ。
逆に試合から人格や人生が見えてこない選手には興味を示さない。見えてこなさすぎる――と嫌悪する。
今年6月にメキシコ遠征から帰国した内藤は、新日本本隊を脱退して、メキシコCMLLの「ロス・インゴベルナブレス(制御不能)」なる新ユニットに加入したことを表明した。唐突だったが、そもそも、単独でメキシコに渡ったのは、新しい刺激、新しい自分探しが目的だった。