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アジアのトップストライカーがJに凱旋!
鄭大世が見せる5年分の苦悩と成長。
text by
吉崎エイジーニョ“Eijinho”Yoshizaki
photograph byGetty Images
posted2015/07/19 10:50
韓国でのイベントにて赤ん坊を抱いて登場した鄭大世。プレーの質を決定的に変えるキッカケとなった、自慢の息子だ。
日本であまり報じられてこなかった、韓国での2年半。
「やっぱりFWのポジションでチャレンジしたいんです」
2013年の春、韓国でのチャレンジを始めた鄭大世が口にしていた言葉だ。意外だった。鄭大世といえば強烈なストライカーのイメージが強かったからだ。韓国でも「人民ルーニー」というあだ名で知られていたし、2010年ワールドカップ前には「ドログバ(コートジボアール)好き」を公言していた。
しかしその言葉は、彼の“落ちた”状態を表していた。
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この時の彼は、ヨーロッパでのチャレンジを本意ではない形で終えていた。北朝鮮代表として出場した2010年ワールドカップを終え、ブンデスリーガの門をノックした鄭大世。ドイツでのスタートは2部のボーフムからだった。最初のシーズン(2010-11)では、いきなり10ゴールを挙げるなど活躍を見せた。しかしこのシーズン、入れ替えプレーオフまで進みながら、クラブは昇格を逃してしまう。
その半年後、2011-12シーズンの途中に1部のケルンからオファーを受け、念願の欧州トップリーグでのプレーを実現させた。現地でも親交の深かった槙野智章(現浦和レッズ)が「テセさんのドイツ語学習熱はヤバい」というほどの努力を続ける中、少し遅めの第一歩を記したのだった。
不本意なトップ下では実力を発揮できず……。
しかし結果的にチームは2部降格の憂き目にあい、1部リーグでのプレーはわずか半シーズンで終わった。鄭大世は以前、出場機会を得られずにいたケルン時代の苦悩をこう口にしていた。
「ケルンでは、練習からトップ下で使われることが多くて。試合で出場機会が得られない上に、練習でも自分のストロングポイントを発揮できるポジションでプレーできない。アピールする機会すら与えられなかった。かなり荒れて、首脳陣にも強く意見しすぎてしまうこともあって……」
失意の下で辿り着いた韓国有数のビッグクラブでも、1トップには国内で長年実績を残してきた大型ストライカー、ラドンチッチ(大宮などにも在籍)や韓国代表選出歴のあるライバルがいた。そんななか、テセは韓国の地でも練習などで4-2-3-1のトップ下で試されることが多かった。
「自分の望むポジションで勝負したい」
そんな小さな願望を持ちつつも、韓国でのキャリアがスタートしていた。