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「TBSにまで借金取りが…」「路上生活者になった」説も…数千万円“ギャンブルの借金”で行方不明になった伝説のプロレスラー、証言された「死の真相」―2024下半期読まれた記事
posted2024/12/26 06:50
text by
細田昌志Masashi Hosoda
photograph by
AFLO
2024年の期間内(対象:2024年9月~2024年12月)まで、NumberWebで反響の大きかった記事ベスト5を発表します。格闘技部門の第5位は、こちら!(初公開日 2024年9月11日/肩書などはすべて当時)。
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力道山39歳の急死「日本プロレスのピンチ」
不動のエース・力道山が健在である以上、不動のナンバー2である豊登道春の地位も安泰であるはずだった。人気も知名度も高く、観客動員にもテレビの視聴率にも貢献していたからだ。日常生活においては、相変わらず、競馬、競輪、競艇、ポーカー、花札と、ギャンブルに一通り手を出し散財しまくっていたが、ボスである力道山は会社への貢献度を考えて、目をつむるばかりか、負けた分の補填にも余念がなかった。それだけ、力道山はプロレスラーとしての豊登を重宝していたのだ。
その力道山が不慮の死を遂げたのが、年の瀬も押し迫った1963年12月15日。ここから、豊登の人生も大きく軌道修正を余儀なくされる。力道山が亡くなった2日後、豊登の姿は麹町の日本テレビ本社にあった。不動のエースである力道山の急逝によって、日本テレビの関係者は、プロレス中継の打ち切りを決める。これに慌てた豊登道春、遠藤幸吉、吉村道明、芳の里淳三の日本プロレス4幹部が、放送継続を直訴するため日本テレビに直接赴くと、日本テレビのプロレス担当者は、渋々、放送継続を認めながらも、次の条件を呑ませた。
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(1) 新エースの豊登に世界のベルトを巻かせること
(2) 豊登はわかりやすい必殺技を編み出すこと
(3) それでも1カ月の平均視聴率が20%を切ったら即座に打ち切ること
すなわち、気ままなナンバー2だった豊登が、突如としてエースの椅子に座ることになったのである。しかし、これまでサバ折りや、逆エビ固めのように、力任せの技しかない豊登にエースがつとまるとも思えず、日本プロレスの興行収益は見る見る低下していった。
「一晩で2000万円を溶かす」事件
見かねた日本プロレスの幹部は、米国修行中のジャイアント馬場を緊急帰国させ、豊登と馬場による2トップ体制を敷く。すると、次第に人気は回復、テレビの視聴率も再び上向きとなり、それどころか、力道山時代を上回る数字を弾き出すようになる。若きジャイアント馬場のアメリカナイズされたスケールの大きいプロレスが、新鮮に映ったのである。
問題は豊登である。力道山亡き後、日本プロレスの後継社長となっていた敬子未亡人から、ひったくるように社長の椅子を取り上げ、第3代日本プロレス社長に就任した豊登だったが、会社経営にさしたる関心はなく、専務に就任した芳の里にすべて任せきりにし、平日から競馬、競輪、競艇とギャンブルにうつつを抜かした。ある日、会社の金庫から2千万円を鷲掴みにして、非合法の賭場に現れるも一晩で2000万円を溶かすという事件を起こす。現在の価値で約8000万円である。