濃度・オブ・ザ・リングBACK NUMBER
後楽園の『Krush』で何が起こった?
佐藤嘉洋が再認識した“世界基準”。
text by
橋本宗洋Norihiro Hashimoto
photograph byTakao Masaki
posted2011/01/17 10:30
佐藤嘉洋(写真左)は、24歳ながら欧州で世界タイトルを4本持つシェムシ・ベキリの打たれ強さに苦戦を強いられた
若い頃の気持ちを取り戻すために。
K-1に参戦する以前、全日本キックに所属していた2001年から2004年にかけて、佐藤はオランダやイタリア、タイで頻繁に遠征試合を行なっていた。敵地でタイトルを獲得するなど、当時は日本よりも海外のほうが評価が高かったと言っていいほどだ。
2002年はK-1 MAXが旗揚げした年。母国で同階級のファイターが脚光を浴びる中、彼は敵地で(日本では無名の)世界レベルの強豪たちとしのぎを削り合ってきたのである。2004年11月、イタリアでの試合をTKOで勝利した彼は、筆者にこう語っている。
「僕は海外で闘うパイオニアになりたいんです。そこにロマンを感じる」
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翌2005年からはK-1参戦を果たした佐藤だったが、自らを鍛え上げた海外での経験を忘れたわけではなかった。
「K-1で優勝したら、また世界へ出て行きますよ。K-1に出ている選手だけが強いわけじゃない。海外には、日本人が知らない強い選手がいっぱいいるんです。そういう選手の存在を、K-1王者が闘うことで日本のファンにも知らしめたいんです」
そんな言葉を残したのは、世界トーナメントに参戦した2006年4月のことだ。K-1で実績を残し、知名度を上げていきながら、彼の頭の中には常に海外での闘いがあったのである。
30歳。再び世界転戦へ。
そして今年、佐藤は30歳にして再び本格的な海外進出を果たそうとしている。
「K-1王者として海外へ」という目標は叶わなかったが、自分をさらに強くするためには、これがベストの方法だということだろう。同時に“これは佐藤嘉洋にしか歩けない道だ”というプライドもあるに違いない。
ベキリ戦での苦しみは、今後の楽しみと成長につながるものだった。「これからも面白いことが続きそうですね」。苦しい試合の後だからこそ、彼はそう言えたのである。