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<個人複合、初の頂点へ> 渡部暁斗 「変わり者が貫く“美学”」
text by
折山淑美Toshimi Oriyama
photograph byJun Tsukida
posted2014/02/12 06:10
船木、原田に憧れてジャンプ選手になるつもりだった。
多少、天の邪鬼で頑固な性格。他人に言われたままやりたくはなく、自分で納得しなければ動く気を起こさないという信州人気質。それがふたつの種目のことを合わせて考えなければいけない複合という競技にあっているのかもしれない。
実は渡部は、中学3年まではジャンプ選手になるつもりだったという。当然、船木和喜や原田雅彦ら、日本ジャンプ陣の金メダルの影響もあった。
だが、長野県はジャンプをやれば強制的に複合もやらされるシステム。最初はイヤイヤだったが、徐々に結果が出始めるとジャンプをやめて複合に絞ったという経緯がある。
だから、白馬高2年でトリノ五輪に初出場した時は「ジャンプは飛べるが距離は苦手」な選手だった。
だが高3の時に転機が訪れる。練習中に腕を骨折し、得意のジャンプに狂いが生じた。
「ちょうど身長も伸びて体も変わった時期で、筋肉のバランスも変わってうまく体が使えなくなったんです。
その時は本当に悩んだけど、良かったと思うのはジャンプが悪くて距離を下位の方でスタートするから、最初から全力で行くガムシャラなレースをするしかなかったことですね。その辺りの順位の選手は、ジャンプより距離が強い選手が多い。そういう人たちにもまれながら走ったというのは、本当にプラスになっていると思います」
代表の同僚となったスペシャリスト2人から得たもの。
それに加えて、代表チームにいた時期もタイミングに恵まれた。
ジャンプが得意で技術やスーツの研究などにも熱心だった高橋大斗と、走力があってレースの駆け引きもうまい小林範仁という、それぞれの種目で世界トップクラスの選手がいたからだ。
「あの2人と関わりながら一緒にトレーニングをできたというのは、自分の中でものすごくプラスだったと思いますね。それに大学2年の春に河野孝典ヘッドコーチと話をして、身長もパワーもないから、いかにエネルギーを使わずに速く走るかという方向に取り組むようになって。そういうものの積み重ねが、今の僕になっているのだと思います」
そうして渡部が走りの成果を出しつつあったバンクーバー五輪の前年、'09年の世界選手権。日本は団体で金メダルを獲得した。