プロ野球亭日乗BACK NUMBER
「僕は野球を楽しむなんてできない」
規律の男、宮本慎也が球界に残す物。
text by
鷲田康Yasushi Washida
photograph byNanae Suzuki
posted2013/09/02 10:30
「レギュラーで出られないのは引く時かなと感じた」と、引退の理由を語った宮本。34試合を残しての発表は、CS進出に望みをつなぐチームへの配慮だったという。
アテネ五輪で敗れても満足感を感じた理由。
アテネ五輪の日本代表は、史上初めてオールプロで結成されたドリームチームだった。長嶋茂雄監督の指揮下で'03年のアジア最終予選を勝ち抜き、金メダル以外は認められないような大きな期待を背負って大会に向けての準備をしている最中だった。
そんなチームだから、選ばれた選手も生半可な気持ちでいてもらっては困る。勝つためには、少し堅苦しいだろうが、そういう細かい規律が必要ではないか。それがチームをまとめていくための一つの指針になる。宮本はそう話していた。
この少し後に、長嶋監督が脳梗塞で倒れ、日本代表チームは大きな柱を失って五輪を戦わなければならなくなってしまう。
しかし、中畑清ヘッドコーチを先頭に、チームは非常によくまとまっていた。宮本はキャプテンとして、ちょっとでも気持ちが抜けたプレーをしたり、約束事を守れなかった選手に厳しい言葉を投げかけ、集まった選手たちもその言葉をきちっと受け止めて戦った。
銅メダルに終わった瞬間、松坂大輔も城島健司も小笠原道大も中村紀洋も、そして宮本も泣いた。だがその涙の一方で、やることをやって敗れたという満足感に満ちた戦いでもあった。
中堅、若手との間にジェネレーションギャップが……。
「(国際大会の中で)一番、印象に残っているのはアテネオリンピックですね。初のオールプロのチームで、もの凄いプレッシャーの中で、本当に一つになれたと思う」
引退会見で宮本は、思い出をこう振り返った。
実は宮本がプロ選手として日の丸を背負ったのは、このときだけではない。第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)、アテネから4年後の北京五輪と計3度の国際舞台の経験があった。
だが、辞退者が続出したWBCは代役としてのメンバー入り。メジャーリーガーのイチローがチームリーダーとなって、あくまで脇からフォローする役目に徹した大会だった。そして星野仙一監督肝いりのチームリーダーとして代表入りした北京五輪では、また違う悩みを抱えることになった。
厳しい規律を求める宮本と、楽しんでプレーをしたいという中堅、若手選手たちとの間に、明らかにジェネレーションギャップが生じていたのだ。