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10年越しに叶えた2つの夢。フリーダイバー・篠宮龍三、闘いの軌跡。~日本で世界選手権、初開催~
text by
野田幾子Ikuko Noda
photograph byKanako Nagashima
posted2010/07/30 10:30
フリーダイビングを日本でもっと広めたい。そう考え続けてきた篠宮が誘致したアジアで初の開催となる世界大会。オーガナイザーとアスリートという二足のわらじで挑んだこの記念すべき大会で、彼は何を思い、何と闘ってきたのか。
南アフリカで白熱していたサッカーW杯決勝前日の、2010年7月10日。灼熱の太陽が身を焦がす沖縄で、日本人女子チームが強豪ロシアを破り、世界の頂点に立つという快挙を成し遂げた。世界12カ国48名のトップフリーダイバーが沖縄に集結した「フリーダイビング世界選手権 2010 沖縄」の出来事だ。篠宮龍三も選手として参加した日本人男子チームは、デンマークに続き2位。競技開始から13年目を数える日本のフリーダイビング界に、燦然と輝く歴史が刻まれた。
6月30日から開催された今大会は、国別・男女別の3人1組のチーム戦で争われた。選手各々が3種類の競技を行い、記録をポイント換算する。そして総合ポイントの高さで順位が決められる。競技は、フィン(足ひれ)をはき、身ひとつで潜る深さを競う海洋競技「コンスタント ウィズ フィン」(以下、コンスタント)、プールで息を止める長さを競う「スタティック」、そしてフィンでプールを水平に潜水する距離を競う「ダイナミック ウィズ フィン」(以下、ダイナミック)の順に行われた。
篠宮にとって、今大会の成功はとてつもなく大きな意味を持っていた。
彼は、大会のオーガナイザーと選手、双方の役割を担っていたからだ。ヨーロッパで盛んなフリーダイビングの世界大会を日本の沖縄に誘致したい──この願いを2002年から抱き続けてきた。それが、ハワイ島コナで行われたチーム戦『パシフィック・カップ・オブ・フリーダイビング2002』で、日本チームが男女ともメダルを獲得したときから抱き続けてきた願いだった。
2008年にようやく掴んだ沖縄開催実現への手応え。
「やっと来たな……」
2010年の夏、沖縄にいた篠宮は万感の想いを込めてつぶやいた。彼が世界大会を誘致しようと言い出した当初、フリーダイバーをはじめとする仲間たちの反応は芳しくなかった。誰もが「そんなことできるはずがない」という気持ちに支配されていた。
しかし、篠宮だけは違った。必ず実現できると信じ、行動を起こした。2005年には海洋練習のベースを沖縄・恩納村の真栄田岬沖に移すべく、沖縄・読谷村に移住し、2006年から毎年沖縄でローカル大会を開催。来るべき沖縄での世界大会のために、オーガナイザーと選手の二役をこなすシミュレーションを続けてきたという。
「大会のスタッフとして、競技がある日も朝5時から準備して、ウォーミングアップ直前まで船の上でバタバタ働いて。さすがに大変でした。2008年の沖縄大会、コンスタントで水深100mを成功したとき、ようやくオーガナイザーと選手のスイッチがちゃんと切り替えられた。これで大丈夫。そう確信を持てました」
沖縄への移住は、この地でフリーダイビングを啓蒙する目的もあった。世界中から人が集まるような大会を開催するには地元や現場の理解が不可欠だ。2006年から開催してきたローカル大会のおかげでフリーダイビングが認知され、船を沖に出してくれる地元の漁師たちともコミュニケーションがとれるようになった。そして2年前の2008年。オーガナイザーと選手のスイッチが切り換えられるようになったのと同時に、世界大会を沖縄で開催できる手応えをついに掴んだ。篠宮にとって大きな収穫のあった年だった。