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東京ではないようでやはり東京。
青梅に福生、下り坂ポタリング。 

text by

疋田智

疋田智Satoshi Hikita

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photograph bySatoshi Hikita

posted2012/12/31 08:00

東京ではないようでやはり東京。青梅に福生、下り坂ポタリング。<Number Web> photograph by Satoshi Hikita

青梅のレトロなバス停の前で、今回の輪行のお供となった愛車BD-1をパチリ。2013年も、この調子で全国を自転車で走り回る予定ですので、ヨロシク!

青梅高校の略称を思いながら、その校舎を探すと……。

 三鷹市に都立・三鷹高校、国立市に都立・国立高校があるように、ここには絶対に都立・青梅高校が存在するはずだ。しないわけがない。もちろん略称は「おめこー」であろう。いやそうでなくてはならない、と。

 で、探索した。

 街道を引き返したりもした。

 いやがおうにもペダルに力の入る私である。

 その結果たどり着いたのが、おや、灯台もと暗し、くだんの「ラーメン福助」近く、その名も「都立・青梅総合高校」であった。聞けば都立私立を問わず「青梅」のつく高校はここしか存在しないのだそうだ。

 がーん。私は衝撃を受けた。なぜか「総合」なんて余計なものが付いている。実に残念である。

 しかも「総合」……。なぜ「総合」でなくてはならないのか。どうせ余計なものを付けるならば、総合でも、国際でも、未来でも、創造でも、同じだろう。ならばなぜ「国際」にせん。そんな性根のすわってないことでどうする。それで昭和の町を名乗れるか。喝ッ。

 ……なんてね。

 全部、冗談でありますからね、関係者の方々、お怒りにならないように。

 総合の総合たる意味は“普通科とも専門学科(工業、農業、商業等)とも違う、すべてを総合した「第三の学科」”ということだそうで、なるほど、きちんと総合の意味はあるのである。

羽村市の「水神社」は、都民にとって非常に大事な意味がある。

 さて、なかなか青梅から出られない。

 今度こそ出るぞ。というわけで、奥多摩街道を南東にいくと、左に新奥多摩街道、右に(旧)奥多摩街道の分岐点となる。

 両街道はやがて、昭島の近くでまた同じ道に戻るのだけど、私は右の(旧)奥多摩街道を行くことにする。

トラックの通行量が多く、自転車にはあまり優しくない奥多摩道路。この車道をトラックすれすれに走るのは、ちょっと怖い。

 同じ行くなら、多摩川沿いの方が楽しいと思ったからだ。

 わはは、大失敗。

 川沿いはいいんだけれど、いやまあ風が強くてね。

 多摩川から吹き上がってくる風は、冷たくて、強くて、向かい風で、ほんと往生した。

 往生したといえば、このあたりの奥多摩街道は、もうトラックが多くて多くて。道幅は狭いのに、上下両車線を、バンバン大型トラックが通っていく。

 トラック特有のエアブレーキが、プシューッという。それが後から迫ってくる。そのたびにキモが冷える。後から煽られているように感じる。それなのに逃げ場がない。いやはや恐いぞ、奥多摩街道は。突然、強風がびゅうっと吹いたりするし。

 それにしても、このあたりの風景は、とうてい東京都内とは思えない。ところが「地方の風景か?」と言われると、それとも若干違うんだよね。

 無国籍というか、無県籍(?)というか、いわく言いがたい独特の風情がある。どこの地方色にも染まらない“純粋な田舎”というか。

水神社の鳥居脇。小さいが、非常に重要だった土地としての証である。

 と、このあたりが羽村市。

 じつは江戸のはじめから、この場所は“江戸(東京)の水源”として非常に重要だったのだそうだ。街道沿いに「玉川神社」「玉川水神社」というふたつの神社が並ぶんだけれど、ここに祀ってあるのが、まさにお水の神様。

 江戸期、元祖玉川上水が掘削されたのが承応二年(1653年)のことだった。関ヶ原からまだ50年しか経ってない。この頃からここは「水の村」であり、江戸表からは、専門の役人が交代で羽村に出向いていた。地元の農民たちも水番人を買って出、水質を管理したのだという。この村はいわば「水道立村」だったのだ。

 それにしても田舎だ。風に萱やススキがたなびく。山は雑木林。人口は今でも5万7000人程度だそうだ。東京の中でもっとも少ない「市」である。

【次ページ】 アメリカンな福生の「限りなく透明に近いブルー」後。

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