野球クロスロードBACK NUMBER
今季来日した助っ人外国人選手達。
日本球界にある“独特の洗礼”とは?
text by
田口元義Genki Taguchi
photograph byKYODO
posted2012/02/28 10:30
ソフトバンク入りしたペーニャは、その入団会見で「自分の名前が全米に知られたのは飛距離のおかげ。昨年も150メートル以上は飛ばしたよ」と本塁打王に向けてアピール
日本野球独特のスタイルへの順応が成功の秘訣。
年俸の高低にかかわらず、新外国人選手たちは今、チームの命運を託されてもいる。だからといって結果を残せるとは限らない。
「球団のなかにはエージェント任せで、実績とプレーしている映像を少し見ただけで外国人選手を獲得するところもあります。そんな選手はすぐにクビになる。現地で直接見て、ストロングポイントというよりは弱点を克服するよう強く言い聞かせた上で獲得を判断しないと、日本では通用しないと思いますよ」
そう苦言を呈するのは、日本における外国人選手補強の現状を憂いている日米両球界に精通した関係者。
確かに、練習形態や変化球中心の配球など、日本には海外と大きく異なる野球スタイルが根付いている。彼が言うように過去、成功を収めた選手たちは、必ずと言っていいほど日本のスタイルに順応できるよう努力をした。
日本球界に足跡を残した先輩助っ人からの助言の中身は?
日本通算打率1位の3割2分(4000打数以上)の記録を持つ兄レロン(元ロッテ)、通算3割8厘、268本塁打を誇る弟レオン(元ロッテほか)の「リーブラザーズ」は、結果を出さなければ首脳陣から批判され、結果を出してもチームメートの一員として認められないといった厳しい現実を味わいながらも、'70~'80年代の長きにわたって日本球界で確かな足跡を残した。
そんな彼らは、引退後、後輩外国人たちにアドバイスを求められると、<チームメートに心を開け><日本の野球から学ぼうと思え><できるだけ街を歩け>と「日本球界で成功するための3箇条」を挙げているという。
1984年に外国人選手としては初となる三冠王に輝いたブーマー(元阪急ほか)もそうだ。華やかな実績ばかりに着目してしまうが、晩年は大幅年俸カットや無情の解雇通告を受けるなど苦労した。その経験から、彼はこう助言しているという。
「日本ではNOと言ってはダメだ。一度はYESと言うべきだ」
'90年代以降になると、文化的な要素に加え技術的な変革も求められるようになった。
「安打製造機」と呼ばれ'90年に首位打者となった大洋のパチョレック。'98年に「マシンガン打線」の中軸として横浜を日本一に導き、首位打者1度と打点王2度獲得したローズは、当時、スカウトを務めていた牛込惟浩の「変化球の捌き方がうまいし、右方向へもしっかり打球を飛ばせる。アメリカでも日本でも苦手なコースがないバッターなんてひとりもいない。そんなことを気にせず、野手の間を狙うバッティングを心掛けたほうがいい」という訓示を忠実に守ったことでプロ球界の歴史に名を刻んだ。