Sports Graphic Number MoreBACK NUMBER
<ノンフィクション> 86歳のサッカー少年 ~最高齢記者・賀川浩の半生~
text by
近藤篤Atsushi Kondo
photograph byAtsushi Kondo
posted2011/05/11 06:00
神戸一中はサッカー強豪校であり、進学校でもあった。メガネ着用率が高い。前列左から2番目が5年生の賀川。'41年撮影、賀川所蔵
本人の前で言えない言葉は記事の中でも使わない。
辛口おおいに結構、と賀川は言う。よくぞ言ってくれた、と思わされることもある。しかしながら、サッカーがプロ化され、誰もが激しく批判することが当たり前になったこの時代にあっても、賀川のサッカーや選手に対する姿勢は、新聞記者になった当時から変化していない。
「本人の前で言えない言葉は、記事の中でも使ったらあかんて今も思ってるし、みんなの前でわざわざ、こいつ下手やねん! って叫ぶこともない。そんなん本人に直接言うたらええことやろ。もともと自分は人のええ部分を見て話すほうが性に合ってるから」
それに、と賀川は付け足す。
「もしあの頃、自分たちがきついこと書いて、そこにみんなが便乗してたら、サッカーそのものが潰れてたかもしれんよ」
奇妙な縁がもたらした“オカダタケシ”少年との出会い。
2010年11月下旬から12月上旬にかけて、神戸と東京の2会場で賀川浩のサッカー殿堂入りを祝うパーティが催された。そのパーティには、賀川に縁のある元サッカー選手や、ともにサッカー報道に尽力してきたメディア関係者が大勢集まった。
列席した元サッカー選手の一人、岡田武史との初対面は奇妙な縁がもとだった。
賀川が運動部部長に就任した頃の話だ。'71年のある日、一人の少年に会ってくれないか、という相談を受ける。聞くと、その少年は、無名の弱小校サッカー部に所属する中学3年生で、ドイツにサッカー留学するといって聞かない。父親が困り果て、知人の伝(つて)を頼って賀川のところに説得係の話が回ってきた。
「こんな時代にそんな志の高い少年がおるんか、それは応援してやらなあかんなあ、って思ってたんやけど」
待ち合わせ場所の喫茶店に行ってみると、メガネをかけた、ひょろりとした線の細い少年が一人で席に座っていた。少年の名は、オカダタケシ。
職を失ったセルジオ越後を救った賀川の機転。
岡田は当時のことを振り返って語る。
「賀川さんねえ……、日本サッカー界のご意見番みたいな人、って聞かされててね。無茶苦茶緊張して会ってみたら、君なんかあかん、全然だめや、せめて高校は出ておきなさい、ってボロクソに言われたよ。こっちもそんなもんかなって諦めて。高校出たらドイツなんか行く気なくなってたけど(笑)」
あの時ドイツに行っていたら、大金持ちになっていたかもね、今は無職やし、と岡田は笑う。大金持ちになっていたかもしれないが、もしかするとW杯初出場も、W杯ベスト16進出も経験できなかったかもしれない。
祝賀会の会場では、さまざまな人が祝辞を述べ、グラスを合わせ、写真を撮り、スクリーンに映し出される写真について本人が解説を加え、半分の人はそんな話に耳を傾けることなく久しぶりに再会した仲間と歓談し、なぜかフラメンコダンサーまでが登場する。
祝賀会発起人に名を連ねるセルジオ越後は、神戸のパーティで壇上に立ち、こんな話でスピーチを始めた。
「賀川さんがいなかったら、僕は今こうして日本にいなかったかもしれません」
1977年、所属していたサッカー部が廃部に追い込まれて職を失ったセルジオの元に、大手清涼飲料会社をスポンサーとする大規模な少年サッカースクールのプロジェクトの話が持ち込まれる。しかしセルジオは、日本協会が導入したコーチの資格を所持していなかった。
「まあ、中にはうるさく言う人もおるわな。そんなら平木君に相談しよか、ってことになったんや」