Sports Graphic Number MoreBACK NUMBER
<ノンフィクション> 86歳のサッカー少年 ~最高齢記者・賀川浩の半生~
text by
近藤篤Atsushi Kondo
photograph byAtsushi Kondo
posted2011/05/11 06:00
神戸一中はサッカー強豪校であり、進学校でもあった。メガネ着用率が高い。前列左から2番目が5年生の賀川。'41年撮影、賀川所蔵
編集局80人のうち、75人は野球好きという時代。
西田は小学校時代から野球一筋、関西大学の野球部では後に阪神タイガースの大エースとなる村山実と同期だった。編集局の人数はおよそ80人、そのうちの75人は野球好き、そういう時代だった。
「局次長が、ほな行ってくるわ、っておらんようになるわけです、それも1カ月以上。こっちはサッカーのことなんかなーんも興味ないでしょ。W杯? はあそれなんですか? てなもんです。ほんでまた、西ドイツから送ってくる記事も長いし、専門的やし、けど局次長の書いた原稿やから誰も手なんか入れられない。仕方ないからそのまま載せましたよ(笑)」
西田によれば、賀川は野球の凄さ、面白さは認めつつ、ことあるごとに『サッカーは世界で一番愛されているスポーツである』ことを語っていたという。
「こっちはペレのトラップより村山のフォークや、なんて思ってましたけどね。まあでも、ほんまによう仕事する人でしたよ。人間働きすぎて死んだもんはおらん、頭使い過ぎて死んだもんはおらん、酒飲みに行ったりするからあかんのや、って」
管理職としても能力を発揮し、サンスポを関西圏のシェア45%に。
記者としてだけではなく、管理職としても賀川は極めて有能な男だった。W杯の翌年、賀川はサンスポの編集局長に就任する。
どんなに面白いものを作っても、売れなければ意味がない。賀川は部下の一人ひとりに、毎日自分たちが出勤する最寄り駅で、サンスポが午前何時の時点で何部残っているかを報告させ、売り切れ状態の売店があれば、販売部に催促して配布数を増やした。サンスポは徐々に部数を伸ばし始め、数年後、スポーツ紙としては後発だったにもかかわらず、関西圏の即売シェアで45%を占めるようになる。販売部の部会室には、2人に1人は読んでいる、という自信に満ち溢れたコピーが掲げられた。
'82年、大阪国際女子マラソンの開催も、局長時代の賀川の大きな実績のひとつだ。賀川は陸連、警察を含めた関係各所と粘り強く交渉し、実現に漕ぎ着けた。当時のサンスポは、阪神タイガースの記事が充実していることで人気を博していたため、部下の中には、マラソンなんかで新聞が売れるんですか、という意見を持つ者もいた。
「新聞社はいつも前向きで、新しいもんを獲ってこんとあかん。阪神ばっかり書いて、売れてるいうて喜んでても駄目なんや」
翌年、第2回大阪国際女子マラソンで増田明美がレース中に意識を失い棄権、翌朝のサンスポは売り切れた。
今では当たり前となったライティングスタイルを37年前に確立。
話をサッカーに戻そう。賀川はW杯から帰国した後、サッカー専門誌で「W杯の旅から」と銘打たれた連載を始めた。西田は言う。
「よくまあ、あんだけサッカー好きでいられますよね。僕は1日20時間くらい野球のこと考えるけど、あの人24時間考えてますからね。仕事が一段落して、局長の席に座って、なにしてんのかなあって見たら、平気でサッカー専門誌用の記事書いてるんですから」
サッカーと旅をうまく絡め、紀行文風にまとめる。その連載は、日本全国に点在していたサッカーファンたちを大いに刺激しながら1年数カ月続いた。今ではすっかり当たり前になったそのスタイルを、賀川は37年前に確立していた。