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<ノンフィクション> 86歳のサッカー少年 ~最高齢記者・賀川浩の半生~
text by
近藤篤Atsushi Kondo
photograph byAtsushi Kondo
posted2011/05/11 06:00
神戸一中はサッカー強豪校であり、進学校でもあった。メガネ着用率が高い。前列左から2番目が5年生の賀川。'41年撮影、賀川所蔵
中学5年の夏前に突然下った“転向命令”。
用具の準備、管理から控えGKのトレーニングまで、マネージャーの仕事は山ほどあった。ボールの修繕も重要な役目だった。賀川は近所の靴屋に行き、皮革の補修作業を教えてもらった。賀川の1年下で、自身もマネージャーを務めた田渕英三は、神戸一中時代に使っていた目打ちを今も大事に持っている。
「練習帰り、賀川さんの家に寄っては、毎晩遅くまで直していました。駄目になったボールの革をまだ使えそうなボールに張り合わせるんですが、松脂を糸に絡ませて、この目打ちでね、表と裏から分厚い革に糸を通す。なかなか熟練を要する作業でしたよ」
3、4時間かけて直したボールは翌日の練習でまたすぐ駄目になり、夜が来るとまた修繕した。
1年後、賀川は練習のメニュー作りも任されるようになる。テクニックを磨く練習が必要だと思えばボールを増やし、ボールが足りなければチームを半分に分け、一方がフィジカル、もう一方はボールを使って、と工夫した。力を抜く者がいればそれがたとえキャプテンでも、竹の棒を手にした賀川は叱咤した。田渕は言う。
「いつもニコニコして優しい人ですけど、ことサッカーになると、自分の価値観には何人たりとも絶対に手出しはさせない、そんな頑固な人でした」
そうして名マネージャーとなった賀川浩だったが、5年生の夏前、選手をやれと突然命じられる。
後に「毎日の名物記者」になるチームメイトが渋る賀川を説得する。
その年のチームはDFも、中盤も、両サイドもいい選手が揃っていたが、なぜか点取り役だけが不在だった。そんな状況の中、夏の大会の県予選を間近に控えて、OBの誰かが言った。浩にやらせたらええやないか。
GKの練習に付き合うことで、キックの精度は抜群によかったし(賀川はチームの誰よりもチョップキックが上手かった)、皆とともにグラウンドを走り回っていたから、体力的にも問題ない。
しかし、賀川は断った。選手をやれと言われても、そのへんの弱小チームの話ではない。全国制覇を狙おうかというチームのゴールゲッターをやれ、という話である。
「自分がやらなあかんかったら、あんなきつい練習組むかいな。アリゴ・サッキかて、自分がやらんからあんな無茶苦茶なプレスを生み出したんやで」
尻込みする賀川を説得したのは、1年下、後に日本代表選手となり、引退後は大阪毎日新聞の記者として産経の賀川、朝日の大谷四郎とともに関西の三羽ガラスとしてサッカー界の発展に尽力した岩谷俊夫だった。
「普通やったら、賀川さん、ここはみんなのためにがんばってください、とくるわな。でもさすが、毎日の名物記者になる男や」
ある日の夕暮れ、神戸一中のあった高台から下ってくる道すがら、岩谷は賀川にこう言った。
「ここはひとつ、あなた自身の人生のために、選手をやってください。点は僕が取らせます」