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<ノンフィクション> 86歳のサッカー少年 ~最高齢記者・賀川浩の半生~
text by
近藤篤Atsushi Kondo
photograph byAtsushi Kondo
posted2011/05/11 06:00
神戸一中はサッカー強豪校であり、進学校でもあった。メガネ着用率が高い。前列左から2番目が5年生の賀川。'41年撮影、賀川所蔵
中学最後の大会を制した1カ月後、「あの戦争」が始まる。
1カ月後、賀川は県予選に出場し、岩谷が繰り出す完璧なラストパスをダイレクトで、あるいはワントラップして相手ゴールに蹴り込み、チーム最多の6得点を挙げた。夏の全国大会は戦時下の関東軍特種演習の影響で中止となったが、その年の秋に行なわれた明治神宮大会では朝鮮半島代表の普成中と引き分けて優勝した。
最終学年の最後の大会を優勝で終え、賀川は喜びに浸りながら考えた。どこの大学いったらええかな、そろそろ真剣に勉強せなあかんなあ。
しかし、それからさらに1カ月後、あの戦争が始まる。
12月8日の夕方、兄の太郎は自宅に帰ってくると、弟に向かって、戦争、始まったなあ、エロイカでもかけよか、と呟き、ベートーヴェンのレコードを手に取った。そして言った。
「おれらもやっぱり死ななあかんのやろな」
弟も同じことを考えていた。
朝鮮半島の海州市迎陽飛行場で聞いた終戦の報。
死を覚悟して特攻隊に志願した賀川浩だったが、歴史は彼の都合通りには進まなかった。1945年8月15日、賀川は終戦の報を朝鮮半島の海州市迎陽飛行場で聞く。95式一型練習機、赤トンボと呼ばれていたあまり性能のよくない飛行機で何度も突撃の訓練を行ない、透き通る瞳を持った少年飛行兵たちが空の向こうへ散ってゆくのを見送り、彼の所属する413部隊もあと数日で飛び立つはずだった。はいこれで戦争は終わりです、その報を聞いた時の感情は、安堵でもなく悲嘆でもなかった。
「どっちかいうと、はあ? って感じやったな」
ちなみに、今でも飛行機に乗って突っ込んでいけるんですか、と問うと、
「まあ簡単なやつやったら、たぶんいける」
のだそうだ。95式一型練習機を操縦できる86歳の現役サッカーライターなんて、他にはいない。
復員してからの賀川は、その後の数年間を特に何かに打ち込むことなく過ごす。大学は途中で辞めた。年下の連中に請われればサッカーを教え、自分でもプレーをしたが、心がそこにあるような気はしなかった。