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<ノンフィクション> 86歳のサッカー少年 ~最高齢記者・賀川浩の半生~ 

text by

近藤篤

近藤篤Atsushi Kondo

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photograph byAtsushi Kondo

posted2011/05/11 06:00

<ノンフィクション> 86歳のサッカー少年 ~最高齢記者・賀川浩の半生~<Number Web> photograph by Atsushi Kondo

神戸一中はサッカー強豪校であり、進学校でもあった。メガネ着用率が高い。前列左から2番目が5年生の賀川。'41年撮影、賀川所蔵

記者になって初めて本気で考えた、日本サッカーの未来。

 きっかけはスウェーデンからヘルシンボリというクラブチームが来日した際、知人から依頼されて京都新聞に書いた原稿だった。その記事がある人の目に留まり、産経新聞の人事責任者を紹介され、終戦から7年後の'52年、賀川は産経新聞の運動部に職を得る。

「軍隊時代も上官に頬を殴られて、ほうさすがにこの人は剣道7段や、こぶしの喰いこみ方が違うなあ、って分析してたりするタイプやったからね」

 新聞記者の仕事は自分に向いているような気がしたし、サッカーの記事を書くのは楽しかったが、大阪で働くようになると、神戸の頃のようには人々の心の中にサッカーが入っていかないことを、賀川は痛感した。

「記者になってからかな、本気でこの国のサッカーを強くしたいって思い始めたのは。自分が好きでやってきたスポーツがなんで盛んにならないのか。盛んにできてないだけのことやろ。だって世界では盛んなわけやから」

 幸い関西では、同窓生の大谷、岩谷がそれぞれがんばっていた。少し上には相談役的な存在として、川本泰三という戦前の大ストライカーもいた。みんな、明けても暮れても、サッカーの話ばかりしていた。

「ゴール前でストライカーが『消える』って表現があるやろ。あれはな、川本泰三が生み出した用語なんや。英語でディサピアーとは言わんからね。川本さんと2人でね、僕ら、ぜったいヨーロッパの人間よりもサッカーについて考えてますよねえ、って」

1974年、出張費用をすべて自弁し西ドイツW杯取材へ。

 人生におけるそれぞれの年にそれぞれの重量があるとするなら、賀川にとって1974年は一番重かった年かもしれない。その年6月から7月にかけて、サンケイスポーツ編集局次長の立場にあった賀川は、西ドイツで開催された第10回W杯へと旅立つ。

 もちろん当時は、編集局次長の立場にある人間を、はいそうですかと新聞社が諸手を挙げてW杯取材に送り出してくれる時代ではない。そこで賀川は自らスポンサーを探し、交換条件を会社に提示した。出張費用はすべて自費で払う、面白い記事を書く自信もある、記事の下には広告も入って会社に金は落ちる、ただし自分が事故か何かで死んだ場合は、母親のために労災扱いにしてほしい。これで、会社に、何の損がありますか?

 OK、行ってらっしゃい。理解ある上司、長尾幸太郎の協力を取り付け、賀川は西ドイツで精力的に動き回った。練習、試合、2部リーグ所属のクラブチーム、人々の会話に耳を傾け、風景に目を凝らし、すべてを見、すべてを知ろうとした。50歳になろうとしていたが、だからこそ理解でき、感動できることが山のようにあった。

 賀川の下で長年働き、現在は大阪で広告代理店の顧問を務める西田二郎は、賀川のことを親しみを込めて、あのおっさん、と呼ぶ。

「あのおっさんねえ、サッカー、好きですやん。昔からサッカーの話始めたら、これがまた長いんですわ」

【次ページ】 編集局80人のうち、75人は野球好きという時代。

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