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「ぶっ壊れてもいい」激走に次ぐ激走、原晋監督の起用もズバリ…箱根駅伝4位「伝説の学連選抜」が起こした奇跡「オレたち、空気読めてないよな」
text by
小堀隆司Takashi Kohori
photograph bySankei Shimbun
posted2025/01/23 11:42
2008年の箱根駅伝で4位に入った関東学連選抜チームの選手たち。「関東学生連合」へと名称が変わった現在に至るまで、この記録は破られていない
今ほどネット環境が自由ではなかった時代だ。特にレース中、選手が耳にする情報には限りがあった。金森は独自に情報をかき集め、前を走るランナーとのタイム差や、全体の順位など、それらを逐一中継所にいるランナーに携帯で伝えてくれたという。
この献身的なサポートが、どれほど選手を奮い立たせただろう。
原晋「野生の勘です」5区に抜擢した2年生が…
山の5区を任されたのは、上武大2年の福山真魚。個人としても、大学としても、箱根を走るのは初めてだった。当初、ここには青学大の先崎祐也がエントリーされていて、福山もまた急きょ出走が決まった代役の一人だった。
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学連チームの弱点は、まさにこの山の2区間である。年間を通じて対策を打てるはずもなく、寄せ集めの中から走れそうな選手を選ぶしかない。
それが、まさかの快走だった。1人を抜き、2人を抜き、最後はなんと5人を抜いて芦ノ湖のゴールに飛びこむ。福山は区間3位の走りで、学連選抜チームは往路を終えて4位につけた。当人たちを除いて、誰もが驚いたはずだ。
そもそも、5区の代役はなぜ福山だったのか。当時の専門誌にひと言だけ、原監督のコメントが載っている。
「野生の勘です」
選手の適性を見極める能力は、この頃から抜きんでたものがあった。
「ぶっ壊れてもいい」山下りでの“激走”
翌1月3日は快晴。復路のスタート6区を任されたのは平成国際大の佐藤である。
佐藤にももちろん、山下りの経験はなかった。ただ、事前に監督からはこう声をかけられていたそうだ。
「6区は走れそうと。根拠はわかりませんけど、そう言われましたね」
佐藤は、忍者の里で有名な三重県の名張市出身である。上野工高(現・伊賀白鳳高)時代に都大路で5位に入っており、1学年下に高林祐介(現立教大監督)がいた。起伏のある土地で練習をしてきた成果だろうか、バランス能力に長けていた。この時、箱根山中の路面は少し凍っていたが、「ぶっ壊れてもいいから行こう」と強気に攻めた。
だが終盤、残り2kmを切ったところでガス欠になる。思わず体がふらつき、反対車線を走る車にぶつかりそうになったという。
「スペシャリストじゃないのでね。フルで試走もしていないし、疲れてくると端っこに寄っちゃうクセがあるんです」
いったんは足が止まりかけたが、そこから体勢を持ち直す。最後にもう一度力を振り絞れたのは、やはり襷の持つ力だった。「一翼を担っている責任感で」足を前に運ぶと、最後は倒れ込むようにして襷をつないだ。