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「さすがに使えないかな」青学大・原晋がボヤいた…「誰が4区を走るのか?」箱根駅伝前日、選手に告げた“選ばれなかった理由”…10年前の初優勝ウラ話
text by
生島淳Jun Ikushima
photograph byNanae Suzuki
posted2025/01/24 11:03
青学大を率いる原晋監督(写真は2025年)
その夜には、新しい「山の神」が誕生していた。日本全国に神野大地の名前が広まっていた。
体重が45キロしかない神野の小さな体のどこに、あんなエネルギーが隠されていたのだろう。
陸上は素質がモノをいう世界だ。絶対に、といっていいほど勝てない相手もいる。しかし、神野ほど努力でここまで上りつめた人間はいなかった。
青学大、初優勝の瞬間
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帰りは運営管理車ではなく、選手たちの荷物を運ぶ荷物車に乗って高木は大手町に戻ってきた。
アンカーの安藤悠哉が先頭で大手町に帰ってきた。優勝校のネームプレートに母校の名前が刻まれるのだ。
安藤がゴールテープを切ると、そこから狂乱が始まった。取材の対応に、日本テレビの各番組への出演。町田の寮に帰ると、どっさりと取材申請のファックスが届いていた。監督はひとつひとつに目を通し、時間が許す限り応じようとしていた。高木には寝る間もなく、1月5日までは平均睡眠時間が2、3時間で仕事をこなしていった。
そんなとき、卒業論文の担当教授から、メールが届いていた。
「優勝おめでとう。卒論、待ってますよ」
高木が卒論を提出したのは、1月24日のことである。大学生としての生活が終わりを迎えようとしていた。
4月からはスーツを着て、銀行での仕事が待っている。
「マジか」原晋の“後日談”
優勝後、原の手記、あるいは記事がいろいろな雑誌に掲載されたが、そのなかにこんなものがあった。
「箱根駅伝で3区を走った渡邉利典という選手を、私は秋の時点から走らせたいと思っていました。それでも、私が直接『3区を考えてるから』と話してしまうと、『あ、監督は俺を使ってくれる』と安心してしまいかねない。私は主務を務めていた4年生の高木聖也に対して『渡邉、3区で使いたいなあ』とボソッとつぶやき、間接的に渡邉に伝わるようにしました。そうすると、『監督はそんなことを考えてるのか。よし、もうひと踏ん張りだ』と前向きの力になっていく。
でも、こんな形で種明かしをしてしまうと、来年からはこの方法が選手に通じなくなってしまいますね(笑)」
マジか。一読して、驚いた。
監督は自分が渡邉に話すことも見通して、耳に入れたのか。それがいちばん、渡邉が効果的に準備する方法だと、監督は知っていたんだ――。
かなわないな、まったく。
4年間を振り返ってみると、繰り返し怪我をした時期は、たしかに苦しかった。「マネージャーになったよ」と熊本で告白したときも、つらかった。でも、卒業を前にして、はっきりといえる。
あのとき、やめてよかった。
だからこそ、最高の経験ができたんだ――。