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プロ2試合で戦力外通告…“消えた天才”島袋洋奨32歳の告白「真っ直ぐに頼りすぎた」「“たられば”はない」恩師の証言「消耗は宮城大弥の倍以上」
text by
松永多佳倫Takarin Matsunaga
photograph byTakuya Sugiyama
posted2025/01/10 11:05
島袋洋奨はプロ入り後もコントロールに苦しみ、一軍登板わずか2試合で選手としてのキャリアにピリオドを打った
「引退まで不安は消えなかった」プロ入り後の苦悩
大学2年春までの島袋であれば、もっと上位で指名されていただろう。世代のリーディングプレーヤーとして、今も現役で活躍していてもおかしくなかった。
しかし、酷使による肘の故障に加えて、大学3年秋にはイップスに陥り、まともに投げられなくなってしまった。それでも腐らず、メンタルトレーニングや自主練を黙々と続けた。
4年生となった最後の秋のリーグ戦では、優勝争いを繰り広げていた駒澤大との大一番に先発。相手エースの今永昇太(現カブス)のベストピッチもあり1対3で敗れたものの、早いイニングでの降板を繰り返していたなかで、初回の2者連続ホームランによる3失点のみで 6回を投げきった。
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大学通算成績は12勝20敗、登板回数247.2、奪三振225、四死球103、防御率2.73。変調に苦しみながらも中央大のエースとしての責任を果たし、プロ入りを果たした。
「プロになって心機一転、という気持ちにはなれませんでしたね。三軍からのスタートでしたし、コントロールの悪さは変わらなかったです。一度投げることに不安を持ってしまったせいで、引退するまで不安は消えなかったです」
ピッチングへの不安は拭えず、脳なのか身体なのか、原因がわからないまま“何か”に蝕まれている感覚が延々と続いた。実体がなく、それゆえに解決しようのないものに侵され、苦しめられた。
「今思うと、スライダーをもっと投げておけばよかったかもしれません。大学時代は正直スライダーの手応えがなかったので、ほぼ投げなくなりました。結果的に組み立ての幅を凄く狭めてしまっていた。球種はストレート、チェンジアップ、ツーシーム系だけでした。相手からすると、少ない選択肢で待てます。もっと高校の時に手応えを掴めるぐらい、スライダーを練習しておけばよかった。やっぱり高校時代は一番自信がある真っ直ぐに頼りすぎていたところがあるので」
島袋はどこか達観した口調で続ける。
「プロで技術的に伸びたところは皆無です。ただ、野球に対しての取り組み方だったり、身体に対してのアプローチだったりと、自分がやっていることに対して明確な考えを持って行動するようになりました。自分のチェックポイントを理解しておけば、どこか不調になってもすぐにトレーニングの取捨選択ができる。僕はそれを感覚でやっていた部分があったので、凄く苦労しました。だから自分が指導する選手たちには『この動きに繋がってるからこれを取り入れてるんだよ』と細かく説明するようにしています」