酒の肴に野球の記録BACK NUMBER

「ワシ、投げるから」先発が続投なのにマウンドへ…“批判されたエース”金田正一の埋もれた事実「メジャーも熱視線」「巨人移籍後の成績は?」 

text by

広尾晃

広尾晃Kou Hiroo

PROFILE

photograph byToshiya Kondo

posted2025/01/09 17:11

「ワシ、投げるから」先発が続投なのにマウンドへ…“批判されたエース”金田正一の埋もれた事実「メジャーも熱視線」「巨人移籍後の成績は?」<Number Web> photograph by Toshiya Kondo

2006年の金田正一。引退後もロッテ監督、名球会など球界で存在感を放った

 金田は1951年の全米オールスター戦から1960年のサンフランシスコ・ジャイアンツ戦まで日米野球に6回出場しているが、MLB側も金田の獲得を真剣に検討したと言われている。もっとも金田は海を渡る気持ちはなかったようだが――。

 金田は身長184cmと当時としてはずば抜けて大きかった。勝利数2位350勝の米田哲也は180cm、3位320勝の小山正明も183cm。「体格」は大きな要素だろう。さらに当時は、現在よりも試合間隔が空いていたことも大きい。

 今のNPBは約半年(約180日間)で143試合を消化する。シーズン中はほぼ8割の日に試合が組まれているが、昭和の時代は7カ月(約210日)の間に130試合を消化する日程だった。現在では試合間隔が3日以上開くことはめったにないが、昭和の時代はシーズン中に4日、5日試合がないことも珍しくなかった。登板間隔に余裕があったことで、金田は多くの試合に登板することができた。

金田が「故障知らず」だった要因を推察すると…

ADVERTISEMENT

 さらに言えば、金田正一は「故障知らず」だった。

 同時期、各球団のエースは金田同様、先発救援で大車輪の活躍をした。西鉄の稲尾和久は1956年から63年の8シーズンで70試合以上登板が4回、60試合以上6回、1961年にはシーズン42勝、30勝以上を4回記録し234勝を挙げたが、1964年以降は成績が急落し、6年間で42勝を挙げただけで1969年、32歳で引退した(通算276勝)。

 また南海の杉浦忠は1958年にデビューすると27勝、翌59年には69試合に登板し38勝、60年も31勝を挙げたが、それ以降は成績が急落。1965年から6シーズンで23勝しか挙げられず、200勝に届かない187勝で引退した。

 当時のエースは数年大活躍をした後、肩、ひじ、腰などを痛めて急速に衰えるのが常だったが、金田は1950年のデビューからほとんど故障知らずだった。

 それだけ理にかなった投球フォームで投げていたからだと言われている。また金田自身が自身の体調管理にストイックに取り組み、独自に編み出した調整法を実施していたことも大きかっただろう。同時に金田が所属した国鉄が、創設以来ずっと優勝争いに無縁で「エースに無理をさせる状況」になかったことも大きかったのではないか。

残留を決意したはずの金田が巨人に移籍したワケ

 しかし金田は1964年オフ、15年君臨した国鉄を退団し、巨人に移籍する。

 当時のプロ野球界には「10年選手」という制度があった。実績を挙げた選手は10年間同一のチームでプレーすると「自由移籍」「ボーナス」のいずれかを選択できるというものだった。金田は1959年オフに「10年選手」の資格を得たが、紆余曲折があったものの「残留」を決意している。

 その風向きが変わったのは、1960年頃である。

【次ページ】 巨人での5シーズン、タイトルは1つだけだった

BACK 1 2 3 4 NEXT
#金田正一
#国鉄スワローズ
#読売ジャイアンツ
#ロッテオリオンズ

プロ野球の前後の記事

ページトップ