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「雑草を引き抜き、躊躇なく口のなかに入れた」瀬古利彦(早大)を導いた“カリスマ監督”とは何者だったのか? 箱根駅伝の歴史に残る“師弟関係” 

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工藤隆一

工藤隆一Ryuichi Kudo

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posted2025/01/02 11:01

「雑草を引き抜き、躊躇なく口のなかに入れた」瀬古利彦(早大)を導いた“カリスマ監督”とは何者だったのか? 箱根駅伝の歴史に残る“師弟関係”<Number Web> photograph by AFLO

箱根路を走る瀬古利彦(早稲田大)

記念大会優勝の翌年、中村は不慮の死を遂げた

 このような盛り上がりの一方で、1980年のモスクワ五輪は同年5月24日に日本のボイコットが正式に決定した。ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議する政府の意向にJOC(日本オリンピック委員会)も従わざるを得なかったのだ。

 箱根駅伝は1984(昭和59)年の第60回記念大会を迎える。過去最多の20校のなかには東京大、東京学芸大の名前も見えるこの大会で総合優勝を果たしたのは中村監督率いる早稲田大だった。じつに30年ぶり10度目の栄冠だった。

 瀬古は、もっとも脂の乗り切った時期に「檜舞台」を踏めなかった。同じく1984年、ロサンゼルス五輪に出場したが、2時間14分13秒で14位に終わっている。瀬古と中村がつくり上げた時代は、すでに過去のものとなりつつあった。

 中村は翌1985(昭和60)年5月、釣りに出かけた新潟県の魚野川で岩から足を滑らせ川に転落し、不慮の死を遂げている。享年71だった。 《第3回も公開中です》

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#3に続く
「信じられない」箱根駅伝で“伝説の20人抜き”はなぜ起きたのか? 4年間の箱根路で「合計50人抜いた」ケニアのごぼう抜き男を覚えているか

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