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「雑草を引き抜き、躊躇なく口のなかに入れた」瀬古利彦(早大)を導いた“カリスマ監督”とは何者だったのか? 箱根駅伝の歴史に残る“師弟関係”
posted2025/01/02 11:01
text by
工藤隆一Ryuichi Kudo
photograph by
AFLO
じつは“中距離ランナー”だった瀬古利彦
おそらく過去の日本人陸上競技選手のなかで、もっとも人口に膾炙されているのは瀬古利彦なのではないだろうか。1970年代の後半から80年代の前半にかけての瀬古は、その実力はもちろん、醸し出す雰囲気、師匠である早稲田大競走部の中村清監督との師弟関係など、この「物語の宝庫」にメディアはこぞって多くの紙面や放送枠を割いた。
瀬古は三重県四日市市に生まれた。陸上競技の強豪校・四日市工業に進学した高校1年のとき、山形で開かれたインターハイの800mに出場し、3位に入賞する。2年時の地元三重でのインターハイでは800m、1500mで優勝。3年時の福岡インターハイでも、800mと1500mの2冠に輝く成績を残している。
当然、大学からの勧誘が殺到する。いっときは中央大への進学が決まりかけていたが、どうしても早稲田に行きたかった瀬古は、1年間の浪人の末、教育学部体育学専修課程に入学する。この時点では、まだ800m、1500mを中心とする中距離ランナーとしての「期待の星」だった。
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それが早稲田大に入学、いや、正確には入学の1か月前に行われた1976(昭和51)年3月の千葉県館山市での早稲田大競走部の合宿で、その後の人生が決められてしまうのである。
瀬古と「対」で語られることの多い中村清監督は、戦後、闇市で手にした金を懐に母校の早稲田大競走部を指導。のちに映画監督として大成した篠田正浩らを指導し、1952(昭和27)年の第28回大会では、早稲田大を18年ぶりの優勝に導いている。
「気持ちで走る男」の異名と同時に「人の好き嫌いが激しい」「生意気だ」等々の風評もあり、有力OBの河野一郎と対立。監督を解任させられ、その後、東急グループを指導し、1964(昭和39)年の東京オリンピックに9人のオリンピアンを送りこんでいる。しかし、9人とも好成績を残せず、中村は自ら監督を辞任した。
「雑草を引き抜き、躊躇なく口のなかに入れた」
中村と瀬古の物語は『箱根駅伝ナイン・ストーリーズ』(生島淳著、文春文庫)に詳しい。中村は、瀬古が入学した1976年に、弱体化していた早稲田大を復活させるために請われて監督に復帰した。このとき63歳。前述した館山合宿で、中村は部員を前に、突然こんな話を切り出した。この年の早稲田大は箱根駅伝で予選落ちし、本戦には出場していなかった。
「いまの早稲田が弱いのは君たちの責任ではない。OBのせいだ!俺がOBを代表して謝る」というが早いか、やおら自分の手で自分の顔を殴り始めたのである。やがて中村の口の辺りから血が流れだしたという。
エキセントリックな中村は「強くなるには何にでも素直にならなければいかん。俺はこれを食ったら世界一になれるといわれたら、食う」というと、足元の雑草を引き抜き、土のついた根っこを躊躇することなく口のなかに入れたエピソードも残している。