Number ExBACK NUMBER
「雑草を引き抜き、躊躇なく口のなかに入れた」瀬古利彦(早大)を導いた“カリスマ監督”とは何者だったのか? 箱根駅伝の歴史に残る“師弟関係”
text by
工藤隆一Ryuichi Kudo
photograph byAFLO
posted2025/01/02 11:01
箱根路を走る瀬古利彦(早稲田大)
瀬古を魅了した中村の“カリスマ性”
この中村のカリスマ性に瀬古も洗脳されてしまう。新入生の瀬古を見た中村は、「君は中距離ランナーだが、世界一になれるのはマラソンだ。私も命を懸けて面倒を見るからついて来られるか」と声をかけた。その真剣なまなざしに、瀬古は思わず「はい、お願いします」と返事をしたのである。当初、中村の監督の任期は2年間の期限付きだったかが、瀬古が入学したことで8年に延びていた。
この年、1977(昭和52)年の第53回大会で、瀬古は1年生ながら2区を任された。順位は区間11位。タイムは1時間16分58秒。早稲田大の総合順位は13位で、シード10校のなかには入れなかった。そして、わずか1か月後に瀬古が挑んだのが自身初めてのマラソン挑戦になる京都マラソンだった。結果は「目の前が黄色くなって」と大失速。それでもフラフラになりながら完走を果たした。記録は2時間26分0秒。
瀬古の箱根駅伝とマラソンへの挑戦はこのときから始まった。翌年、2年生になった瀬古は12月初旬の福岡国際マラソンに出場。成績は日本人トップの5位で、記録は2時間15分0秒。
ADVERTISEMENT
3年時には同じ福岡で2時間10分21秒のタイムで優勝。4週間後の箱根駅伝では2区を1時間12分18秒の区間新記録で走り抜き、早稲田大を総合4位に押し上げる原動力になっている。
鶴見中継所には瀬古の“影武者”も出現
翌1980(昭和55)年にはモスクワ五輪が開催される。ストイックな表情を崩すことなく、まるで修行僧のように黙々と走る姿は、いやがうえにもテレビ桟敷の日本人老若男女の胸を打つ。モスクワ五輪前年の1979(昭和54)年12月の福岡国際マラソンは、モスクワ五輪の代表を決める最終選考会を兼ねていた。瀬古はライバルの宗茂・猛の兄弟を抑えて優勝。念願のモスクワへの切符を堂々ともぎ取ったのである。
4週間後に行われた、瀬古にとっては最後の箱根駅伝となる1980年の第56回大会で、またしても2区の区間記録を更新する。1時間11分37秒。前年を41秒も上回る好タイムで、いまや「早稲田の瀬古」は日本人なら誰もが知っている「モスクワの星」になっていたのだった。
この大会、2区の最後の上り坂で、伴走車のジープに乗った中村はハンドマイクで早稲田大の校歌『都の西北』を高らかに歌い上げた。中村にいわせると、これは卒業していく4年生に向けての「はなむけ」なのだそうだが、瀬古はこの『都の西北』に「早稲田のユニホームを着て走る最後でしたから、あれは泣きましたね。あれ(都の西北)だけでホント走れちゃう。一生残ります」(『箱根駅伝・世界を駆ける夢』より)と述べている。
瀬古人気はピークに達していた。この大会、2区を走り終えた瀬古が上半身裸のまま伴走車のジープに乗りこみ、両手を大きく広げて沿道のファンに応えている写真が残されている。ちなみに、鶴見中継所で待つ瀬古にメディアが集中するのを避けるため、フードを頭にかぶせた瀬古の“影武者”まで用意されていた。