- #1
- #2
プロレス写真記者の眼BACK NUMBER
「ああ、猪木だ。スゲー、猪木が来た」驚きの初来店…アントニオ猪木が愛した“コーヒーの名店”秘話「カウンターの一番端に座り、小さい声で…」
posted2024/10/01 11:02
text by
原悦生Essei Hara
photograph by
Essei Hara
「俺たち移民の奴隷労働」コーヒー農園での過酷な生活
東京の銀座に古いコーヒー店がある。夕刻にはコーヒー豆をローストするいい香りが漂う。「カフェ・ド・ランブル」(CAFE DE L’AMBRE)。「珈琲だけの店」と看板には書かれている。そんな店に晩年、アントニオ猪木はつかの間の休息を求めるように通っていた。
創業者の関口一郎さんは2018年に103歳で亡くなったが、甥の林不二彦さんとその妻の智美さんが「Coffee Only」の店をしっかりと引き継いでいる。林さんは20歳になる少し前からランブルで働き始めた。客に出すコーヒーを淹れるようになるにはその2、3年後だった、という。
「なぜですかね。サラリーマンになりたくなかったからかな。子供の頃、サラリーマンだった父親の転勤が多かったので、それが絶対に嫌だった。幼い頃から関口の店に来ていました。生まれは東京で、転勤で全国を転々としていたけれど、夏休みや冬休みに」
林さんはカウンターに入ってコーヒーを淹れるようになったきっかけをそう語った。
コーヒーの木は
枝いっぱいに白い花を咲かせた
枝いっぱいのコーヒーの実は
秋が来ると赤く染まる
来る日も来る日も
枝をしごき手のひらを血だらけにして
コーヒー豆をかき落とす
俺たち移民の奴隷労働
これは「ブラジルのコーヒー豆」と題して猪木がかつて詩集『馬鹿になれ』に収めたものだが、書してランブルに贈った。
1957年2月、猪木が14歳の時、猪木一族らを乗せた移民船「さんとす丸」は横浜を出港した。父は猪木が5歳の時に他界していて、猪木は母方の祖父である相良寿郎にかわいがられていた。猪木家は祖父の事業がうまくいかなくなり貧困から脱出するため、希望と夢を抱いてブラジルへと旅立った。だが、祖父は2カ月にわたる船旅の途中でバナナにあたって死んでしまった。そしてブラジルの大地での現実は、詩に「奴隷」とあるように、あまりにも過酷なコーヒー農園での生活だった。
軍手はすぐにボロボロになって役に立たなかった。猪木は皮がむけて血だらけになった両手で、夢中でコーヒー豆を籠にしごき落としていた。猪木は昼食後、コーヒーの木の下に寝転んだ。ひんやりとした木陰での一休みだけはオアシスのように感じられた、という。詩は続く。
いずれコーヒー豆は
身を焦がし
世界のどこかで君に会う
洒落たカップに薫りを立たせ
さあ
もうすぐ希望のカーニバルだ