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「最後のバッターがうちの子でよかった」甲子園を見続けてきた伝説の女性記者が今も心に刻む“ある金言”…次の100年へ「高校野球は大きな岐路に」

posted2024/09/27 11:09

 
「最後のバッターがうちの子でよかった」甲子園を見続けてきた伝説の女性記者が今も心に刻む“ある金言”…次の100年へ「高校野球は大きな岐路に」<Number Web> photograph by JIJI PRESS

3年夏の甲子園は準々決勝で敗れ涙を浮かべるPL学園の福留孝介(1995年)

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佐藤春佳

佐藤春佳Haruka Sato

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 女性野球記者の草分け的存在である日刊スポーツの堀まどか記者へのインタビュー。第3回は、最も長く担当したアマチュア野球、甲子園の忘れ得ぬ思い出を振り返ってもらった。(全3回の最終回/1、2回目も公開中)

 甲子園球場が悲鳴をあげていた。1995年1月17日早朝に襲いかかった阪神・淡路大震災。自宅からタクシーで駆けつけた堀記者は、変わり果てたその姿を呆然と見つめていた。その時、甲子園に一人の男性が駆け込んできた。日本高校野球連盟の第6代事務局長だった田名部和裕氏だった。

「わーっと駆け込んできて、グラウンドへと飛び出していったんです。戻ってくると田名部さんは『ああ、甲子園が無事やった……』と泣いていました。私が『全然無事じゃないですよ。もうえらいことになってます』と返すと『ところで君は誰や?』と」

崩れ落ちる高速道路の下を…

 実は堀記者は翌2月から、阪神の番記者からアマチュア野球担当に替わることが決まっていた。「来月から担当するのでよろしくお願いします」。「そうか、よろしく」。未曾有の災害に変わり果てた聖地で交わした、初対面の挨拶。そこから、堀記者のアマチュア野球担当としての取材歴が始まった。

「田名部さんは、私も甲子園の安否を見届けに来てくれたんやと思ったみたいで、何度も『ありがとう、ありがとう』っておっしゃっていました。あの日のことは本当に忘れられない。甲子園からは、トラ番の記者5人で歩いて帰りました。建物が倒壊してガス漏れしていたのかそこら中がガス臭くて、崩れてひっくり返っている阪神高速の下を梅田に向かってひたすら歩きました。すれ違うのは消防車ばかり。そのナンバープレートが三重や愛知で、そんなに遠くから応援に来てくれているんだ、とぼんやり見ていたことを覚えています」

福留孝介の父が語った“金言”

 震災からわずか2カ月余りで開催にこぎつけた1995年のセンバツ大会の取材からアマチュア野球担当としての仕事が始まった。途中で芸能担当やプロ野球担当もはさみながら、2014年までのべ15年近く。特に春夏の甲子園取材は印象的なことが多かったという。

「一番印象に残っているのはPL学園時代の福留孝介選手です。まさに震災の年の95年夏は大阪大会から打ちまくって、甲子園の初戦でも2打席連続ホームラン。その活躍ももちろん凄かったんですが、忘れられないのは智弁学園との準々決勝で負けた試合の後のこと。福留選手の併殺打で試合が終わってしまったんですけど、試合後の囲み取材まで物凄く立派に受け答えした後、囲み取材のお立ち台を降りた瞬間にヘナヘナと力が抜けたんです。

 その試合を見ていた福留選手のお父さんの第一声は『最後のバッターがうちの子でよかった』。併殺打で最後の夏が終わってしまったけれど、これが他の子やったらそこの親御さんが辛い思いをされたでしょうから、と。金言じゃないですけれど、甲子園の取材を通じて聞いた大事な言葉の一つです」

【次ページ】 “爆弾”を抱え説得したスカウト

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