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「俺たち無事だと伝えて欲しい」大震災の朝もトラ番は甲子園に向かった…草分け記者が見た90年代阪神の熱狂「20歳の新庄剛志」「あの退団騒動」

posted2024/09/27 11:08

 
「俺たち無事だと伝えて欲しい」大震災の朝もトラ番は甲子園に向かった…草分け記者が見た90年代阪神の熱狂「20歳の新庄剛志」「あの退団騒動」<Number Web> photograph by SANKEI SHIMBUN

1994年の阪神タイガース。サヨナラ満塁本塁打を放った新庄剛志がチームメートの祝福を受ける

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佐藤春佳

佐藤春佳Haruka Sato

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SANKEI SHIMBUN

 女性野球記者の草分け的存在である日刊スポーツの堀まどか記者へのインタビュー。第2回は、当時女性では珍しかった阪神タイガースの番記者時代を振り返ってもらった。(全3回の2回目/1、3回目も公開中)

 堀記者は1992年から阪神タイガース担当となる。最も多くの紙面を割いてその動向を伝える関西のスポーツ紙で、“トラ番”は花形だ。どんな小さなニュースも逃すまいと担当記者同士、鍔迫り合いを演じる現場は日々、刺激的だったという。

「とにかく強烈でした。ニュースの抜き合いで毎日が喧嘩のようなもの。現場では和気藹々とやってはいるけれど、お腹の中では絶対によそを出し抜いてやろう、という記者の集合体でしたから」

「箱乗り」「夜討ち朝駆け」の日々

 試合の取材のみならず、四六時中チームをぴったりとマークするのがその仕事だ。遠征ではチームと同じ飛行機や新幹線の便で移動する「箱乗り」が基本だった。

「早朝の東京駅のホームでまず選手が全員いるかどうか確認して、 ちょっと隙を見つけては取材をする。新幹線が発車する間際に駅の売店で、アイスクリームのコーンにみたいに積んであるスポーツ紙を全紙買って乗り込んで、大阪に帰って甲子園に行く、みたいな生活でした」

 選手や球団幹部の自宅に取材をかける「夜討ち朝駆け」も当たり前。女性記者は他社に1人いるかどうか、という超男性社会だったが、だからと言って特別扱いはなかった。

「球団の幹部の方なんかは皆さん、いいところに住んでらっしゃるんですよ。たまに夜の10時を過ぎても家の前で帰りを待っているときなんかは、閑静な住宅街の家の灯りがぽつりぽつり消えていくなかで、“私は一体何をしてんのやろ”と思う時もありました。近所の方の“何この人?”という視線を受けながら待ち続けて、ようやく帰りを捕まえたと思ったら『コメントはないです』とか。そんなのも当たり前でしたからね」

「亀新フィーバー」の嵐の中で…

 ゆっくり食事をとる時間すらない生活は、周りにいる20代の女性のそれとは全く違っていたが、苦痛とは感じていなかったという。

「学生時代からの友達と会った時に、全然世界が違うんやな、と感じることはありましたけどそれが嫌だとは思わなかったです。自分はそういう社会に生きているんやな、と思っていましたから」

【次ページ】 助っ人がポツリ「アメリカに帰るつもり」

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