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「最後のバッターがうちの子でよかった」甲子園を見続けてきた伝説の女性記者が今も心に刻む“ある金言”…次の100年へ「高校野球は大きな岐路に」 

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佐藤春佳

佐藤春佳Haruka Sato

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posted2024/09/27 11:09

「最後のバッターがうちの子でよかった」甲子園を見続けてきた伝説の女性記者が今も心に刻む“ある金言”…次の100年へ「高校野球は大きな岐路に」<Number Web> photograph by JIJI PRESS

3年夏の甲子園は準々決勝で敗れ涙を浮かべるPL学園の福留孝介(1995年)

“爆弾”を抱え説得したスカウト

 福留はその後、自身の進路について「意中の中日か巨人以外に指名されたら社会人に進む」と宣言し、ドラフト会議で近鉄から1位指名を受けたものの入団を辞退。粘り強く説得に当たった近鉄との交渉にも注目が集まった。

「近鉄の担当は伝説のスカウトと言われた河西俊雄さん。当時、いつ破裂してもおかしくない動脈瘤を抱えて(福留の故郷の)鹿児島まで足を運んでいました。“爆弾”を抱えながら、何とか口説き落とそうと必死に通う姿は心を打たれたし、一方の福留選手も、自分の意思を貫きながらも、会いたいという近鉄に対してしっかりと顔を合わせて誠実に対応していた。この交渉の取材もとても印象的でした」 

PL学園から大阪桐蔭へ…

 1995年から2014年まで担当した時期は、高校野球の勢力図が大きく変わった激動期でもあった。1960年代から最強を誇ってきたPL学園の衰退、そして大阪桐蔭の勃興。「盟主」が移り変わる過程を見届けた。

「2008年に西谷(浩一)監督の初優勝を見て、12年の春夏連覇も見て。チームがどんどん強くなっていくいい時期に担当できたかなと思います。大阪桐蔭の強さの源は、やっぱり西谷先生の執念だと思う。勝利への執念というより、どんな才能も絶対に無駄にしたくないという執念ですね。

 いい選手を集めているんだから勝って当然という人も沢山いると思います。実際のところスーパー中学生が桐蔭に集まっているのだから、そういう選手を20人くらい鍛え上げれば自ずと勝てますよね。でも西谷先生はそういう考えではない。それ以外の子も全員、一流のレベルに持っていきたいんだろうな、と感じる。有友(茂史)部長から、西谷先生は寝言でも甲子園のことを言っていると聞いたことがあります。四六時中、野球のことを考えてはるんでしょうね」

大阪桐蔭・森友哉の野球愛

 大阪桐蔭の多くの選手たちの中で最も印象に残っているのが森友哉(現オリックス)だ。1年生の秋から正捕手をつとめ、1学年上の藤浪晋太郎(現メッツ3A)とバッテリーを組み春夏連覇を達成。4季連続で甲子園に出場し“第一次黄金期”を築いた扇の要だった。

「1年生の時からいいキャッチャーだなとは思っていましたが、彼は何より野球が好きなんですよ。“大阪のやんちゃな子”みたいな感じなのに、野球になると一気にモードが切り替わる。上手くなるためには絶対に手を抜かないし、野球のことは語り口まで変わって真剣に話し出すので取材をしていて本当に面白い選手でした。プロに入った後も順調に成長していますし、もっと大きな選手になってほしいと願う一人です。余計なお世話かもしれませんけどね」

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