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5歳上の張本勲に「巨人では俺が先輩…」伝説は本当? 元巨人V9メンバー・高田繁に聞く“組織作り”のコツ「チーム作りに年齢なんて関係ない」
text by
村瀬秀信Hidenobu Murase
photograph byJIJI PRESS
posted2024/09/25 11:04
引退後は日ハムで監督&GMも務めた高田繁氏(左)。巨人でチームメイトになった張本勲氏は浪商高校の5年上にあたる高校の先輩でもあった
――若いチームに力がついてきた4年目の1988年には東京ドームが開場して、実数発表前とはいえ観客動員は前年の約2倍となる245万人を集めました。これは札幌移転、エスコン元年でも日本一でも破られていない最多記録です。
高田 あの年はよく入ったよね。東京ドームは日本で初めてのドーム球場だったし、見学がてらに観光しに来たお客さんも多かったんやないかな。やっぱり水道橋という地の利もあったろうし、川崎や大阪球場に比べると、まだお客さんが入っていた分だけ恵まれていたやろね。
――この88年にはその川崎でロッテ×近鉄の10・19決戦がありましたが、日ハムは3位。優勝した西武にも勝ち越して、チーム防御率は1位でした。
高田 若い西崎と松浦が15勝で最多勝を分け合ってね、中継ぎでもフル回転した河野のゲンちゃんが最優秀防御率のタイトルを獲ったんや。バッターは中日から大島康徳が来て、田中幸雄も3年目でモノになりはじめた。あとは、外国人の(トニー・)ブリューワが帰っちゃったんだけど代わりに来た(マイク・)イースラーが4番でよく打ってくれたんだよ。ただ、勝ち越したとはいえ、あの時代の西武はやっぱり強かったよ。
2005年から、今度は日ハムの初代GMに
――4年間で若い選手も育ってきて、成績も5位5位3位3位と上向いていたのに退団をされてしまったのはなぜなのですか?
高田 そりゃ、優勝できなかったからや。今と違ってクライマックスシリーズがないんやから、3位だろうと優勝以外はみんな同じ。監督でもGMでも自分が責任ある立場にいて、決断をする以上、結果に対しての責任は負わなければならないということは常に覚悟してきたし、誰かが責任を取らなければならない。球団にはだいぶ引き留めてもらってありがたかったけど、そこは辞めることしか考えていなかった。
――この時の監督を経験したことが、高田さんのチーム作りの基礎になっているんですね。
高田 まあ、まだ昔の野球界の常識の中ではあったけどね。ただ、「これまでのチーム作りでは、もうダメだから……」ということをハッキリ言われたのはその後。2004年に2代目の大社啓二オーナーから盛んに言われたんだよ。メジャーリーグにあったGMという制度。知ってはいたけど、まさかそのオファーが自分に来るとは思わなかった。2代続けて日本ハムという球団は俺に新しい世界を見せてくれたんだよね。
<次回へつづく>