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日本プロ野球が「いい選手でなければ監督になれない」ワケは? 元日ハム&横浜GM・高田繁が語る「アメリカ型がなじまない」“意外な理由”
posted2024/09/25 11:06
text by
村瀬秀信Hidenobu Murase
photograph by
JIJI PRESS
生まれは鹿児島の薩摩隼人。育ちは大阪。名門・浪商のケンカ野球で生を受け、明治大学島岡学科の首席卒業と呼ばれた神宮の華から、V9巨人の川上野球を骨身に刻み込んだ現役時代。引退した後は、日本ハム監督、巨人二軍監督、北海道移転後の日本ハムGM、ヤクルト監督と各地を転々としながら、若いチームの土台づくりを担ってきた。
御年79歳。プロ野球の第一線から退いて早5年。野球人永遠の課題である「チーム作り」の考え方を後世に伝えるべく、高田繁は2004年の秋に日本ハムで初めて出会ったアメリカ型の「GM制度」について語り始める。<NumberWebインタビュー全2回の2回目/最初から読む>
メジャー方式の「フロント主導型」チーム作り
――88年まで日本ハムの監督を4年間務めたあとは、古巣巨人でコーチ、二軍監督、評論家を務められて、2005年に今度は北海道に移転した日本ハムからGMとして再びお呼びがかかりました。
高田 うん、今度は2代目の大社啓二さんに呼ばれてな、こんなことを言われたんや。「高田さん、日本ハムは従来の日本的な監督主導のやり方ではない、メジャー方式のフロント主導型のチーム作りをしていきたい。高田さんは野球をよくわかっているし、GMに就任してくれないか」ってね。
俺はNHKのおかげで評論家時代にメジャーリーグにも何度も取材に行っていたし、向こうのGMという制度には以前から興味を持っとった。そして現役選手からコーチ、二軍監督、監督と現場での仕事はひと通り経験してきたけど、経験がなかったのがフロントの仕事や。このアメリカ式のGMをやるという依頼は俺にとって願ってもない好機だった。
――これまでも三原脩や鶴岡一人などの名監督や、“寝業師”と呼ばれた西武の「球団管理部長」の根本陸夫、高田さんが監督時代の「常務取締役」だった大沢(啓二)親分に千葉ロッテで初の「GM」の肩書を名乗った広岡達朗という、GM的な役割を担ってきた人たちはいました。
高田 それまでの方たちも肩書は違えどやっていることはほぼ同じなんやけどな。まぁ時代が違うというか、たとえば西武の黄金時代を作った根本さん。俺はまったく接点がないんやけど、あの人の人脈はすごい。オーナーがノー文句で「根本さん、すべてお願いします」という全幅の信頼の下にね、広岡さんを監督に連れてきて、自身は選手獲得に辣腕を振るわれた。
時代もあるけど、『そりゃないでしょう』という裏の手段を使えた時代でもあったからね。有力選手を大学に進学させると明言させて獲得したり、定時制高校に転校させたり、あの手、この手で抜け穴を見つけて、獲得する。そういうのが得意だったし、また、できた時代でもあった。さらに当時の西武は使える資金も豊富やったろうしね。