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「こんなはずじゃ…日本はもっと強いのに」リーチマイケルが明かすラグビー初W杯の屈辱「いつかオールブラックスを倒すというマインドで」《NumberTV》
posted2024/09/12 11:00
text by
多羅正崇Masataka Tara
photograph by
Kiichi Matsumoto
【初出:発売中のNumber1104号[挫折地点を語る]リーチマイケル「現役引退を決意していた」】
「失敗した留学生」と思われたくなくて
挫折と共に歩んできた。
南アフリカを撃破した2015年、初8強の2019年で、2大会連続のラグビーW杯日本代表主将を務めたリーチマイケル。35歳になった2024年においても第2期エディー・ジャパンで主将に指名され、いまも精神的支柱となっている。
そんな鉄人フォワードが、人生初の挫折を味わったのは、母国ニュージーランドから15歳で渡った異国の地・日本。当時は札幌山の手高校に通う無名の外国人留学生だった。
「高校1年のときですね。大阪遠征でした。 相手から『この外人、たいしたことないな』 と言われました」
来日前のリーチは細身ではあるものの、14歳以下の州代表に選出された逸材だった。本人も「活躍できるだろう」と考えて いたが、強烈な一撃を食らった。
さらに同じ年の冬の全国大会(花園)で、トンガ人留学生を擁する正智深谷に5-89という大敗を喫した。ラグビー王国出身のプライドが、ぐらぐらと揺らいだ。
「留学生として札幌山の手を強くするために来ているのに、申し訳なくて。一番悔しかったですね。『失敗した留学生』と思われたくなくて、走る量、タックル量、全部を強化しました」
挫折はむしろ動力源になった。練習時間外にタイヤを引き、大雪の日は校内を走った。ハンバーグレストラン「びっくりドンキー」での食トレにも励み、高校1年で78kgだった体重は高校3年で105kg程度になった。
「いつかオールブラックスを倒す」
やがてリーチは異国だった日本に愛着と感謝の念を覚えるようになっていく。だから東海大学に通っていた20歳の頃、母国でオールブラックス(ニュージーランド代表) に再挑戦する話をもらったが断り、日本代表を目指した。
「自分を強くしてくれたのは日本。恩返しをしたかったし、ずっと日本にいたいと思った。逆に、いつかオールブラックスを倒すというマインドで、断りました」
いつか母国を倒す。
そんな決意が打ち砕かれたのが初出場となった2011年W杯だ。母国で開催された世界No1決定戦にチーム最年少の22歳で 参加したリーチは、第2戦でオールブラックスと向かい合った。
リーチの幼なじみで、三菱重工相模原な どでプレーしたイーリニコラスは「リーチ は毎年州選抜に選ばれていた。彼なら間違いなくオールブラックスに入っていた」と証言する。リーチにとって黒衣軍との激突 は、いわば選択しなかった自身の未来と対峙するようなものだった。しかし。
「7-83で、負けました。こんなはずじゃない、日本はもっと強いのにと思いました。 それも、ひとつの挫折です」
『挫折』の意味を辞書で引くと、「仕事や計画などが、中途で失敗しだめになること。 また、そのために意欲・気力をなくすこと」 などとある。
ではリーチは、ニュージーランド戦の惨敗のために「意欲・気力をなくす」ことがあったかといえば、そうではなかった。
<後編に続く>
【番組を見る】NumberTV「#4 リーチマイケル 動かぬ身体、引退の危機。」はこちらからご覧いただけます。