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日本フェンシングはなぜ「史上最強」になれたのか…競技人口6000人の“マイナー競技”を20年かけて飛躍させた「強化計画」と「外国人コーチ」の系譜
text by
松原孝臣Takaomi Matsubara
photograph byNaoya Sanuki/JMPA
posted2024/08/06 17:00
男子フルーレ団体、決勝戦アンカーに抜擢されたチーム最年少の飯村は勝利の瞬間大きく腕を広げる
そうそうたるキャリアのコーチが並ぶ。かといって、海外のコーチならいいわけではないことは、多くの競技で示されている。
フェンシングのコーチたちに共通するのは選手個々を尊重する姿勢だ。例えば飯村一輝はルペシューについてこう語っていた。
「自分のスタイルをいかす形でアドバイスしてくれます」
飯村は169cmと海外勢に比べれば小柄だ。それをハンディとせず、スピードと距離感を磨いてきたが、ルペシューはそれを認めた上で指導にあたってくれた。彼が象徴するように、日本のフェンシングや選手に敬意を持ち、その上でたしかな技術指導ができ、メンタル面までみられる指導者をそろえられたことに意味があった。
個性的な選手の陣容が武器に
だから多様なスタイルの選手がそろう。男子エペなら、敏しょうな加納、長身を誇りリーチも長い見延和靖、剣さばきの上手な山田優といった具合だ。ヨーロッパの強豪国はプレースタイルが統一されているケースが多いのと対照的だ。
選手の多様性は団体戦で大きな武器となる。相手からすれば対策を立てるのが難しくなるからだ。
練習環境も劇的に変化した。北京五輪の前、国立スポーツ科学センターに設置されていたのはわずか4面のピスト。当然、複数種目の選手たちが同時に練習するわけにはいかない。その後成績が向上するごとにスペースは増え、今日では30面のピストがナショナルトレーニングセンターに設置されて各種目が同時に練習でき、映像解析システムなども完備する。
指導者、練習場と、競技環境を整えた上で、選手の「本気」も時とともに変化してきた。加納は太田が北京五輪で銀メダルを獲る姿を観てフェンシングを始めたが、フェンシングに足を踏み入れるきっかけというだけでなく「日本人でもメダルが獲れるんだ」と実感したという。その意味でも太田のメダルは大きかった。
別種目の選手に、太田らのフルーレの活躍に負けたくないという思いも芽生えた。山田は以前、こう語っていた。
「フルーレばかりでなく、これからはエペの時代にしたいと思っていました」
種目間のみならず、男女間でもよい意味で競争関係が生まれたこともパリへとつながっている。
オリンピックでメダルを、とスタートを切って20年余り。大枠としては一貫する強化には、フェンシングの認知度を高めたいという競技の発展への思いも多分に含まれている。
フェンシングよりも日頃から注目度が高く、強化資金的にも恵まれてきた競技であっても、パリでは苦戦するケースもみられた。フェンシングの成功は、ひとつの参考材料にもなりうるはずだ。