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「慶応高校と言えば茶髪ピアス、野球部は合コン」消えかけた古豪と“スパルタ式”前監督が大変身…43年ぶり甲子園出場を果たすまで 

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広尾晃

広尾晃Kou Hiroo

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posted2024/07/13 11:00

「慶応高校と言えば茶髪ピアス、野球部は合コン」消えかけた古豪と“スパルタ式”前監督が大変身…43年ぶり甲子園出場を果たすまで<Number Web> photograph by JIJI PRESS

2005年センバツ、43年ぶりの甲子園出場が決まり大喜びする慶応高校ナイン

「冗談言わないでくれ、俺を潰す気か」

 上田は当時を、こう振り返る。

「『オマハに行けたら最高じゃないか』、と言ってもそんなことは、これっぽっちも考えていないんです。大学だから投手も複数そろえることができる。先発、救援も準備できるということはありますが、日本とアメリカの意識の差を実感しました。

 それにアメリカでは練習から球数を数えていた。遠投もカウントしていました。こういう意識は全く違いました。カープは2001年にドラフト1位でモントリオール・エクスポズに指名されました。残念ながらメジャーに昇格できませんでしたが、良い教訓になりました」

以前の野球部は“合コン”をやったりする雰囲気で

 慶応高校は、夏の甲子園大会の前身である「全国中等学校野球優勝大会」第2回大会(1916年)で優勝している古豪である。しかし1962年を最後に、甲子園に出場しない期間が40年も続いた。1990年に監督に就任した上田には「何とか古豪復活を」という気持ちもあり、当初はある程度のスパルタ野球もやっていた。しかしUCLA留学を機に、上田の指導方針は大きく変わった。

「当時の慶応高校はとても甲子園なんて雰囲気じゃなかった。野球部で合コンをやったり、楽しい雰囲気で、それもあって僕は厳しくやっていた部分もある。前田監督には『慶応高校でいい選手を育てて大学に送ってくれ』と言われました。実は当時、息子さんが慶応高校にいて『あんなのは野球部じゃない』と言っていたようです。そこで、僕は選手に『甲子園、本気で行こうよ』といって野球部を変えていったんです」

 しかし内部進学組と受験で入ってきた選手が中心だったため、甲子園は遠かった。西武ライオンズで外野手として活躍した佐藤友亮がいた年に、神奈川県大会で準優勝したのが最高だった。

慶応=ピアスして茶髪の印象を変えるために

 転機となったのは2003年に「推薦制度」ができてからだ。

「ロサンゼルスオリンピックでボート競技の監督をしたスポーツ指導者が、慶応高校の校長になったんです。その先生が〈慶応高校の生徒と言えばピアスして茶髪という印象で、アスリート的な生徒がいない。何かカンフル剤が必要じゃないか〉と言った。

 そこで、他部活の顧問の先生と『推薦制度を作りましょう』と行ったんです。〈誰でもいいというわけでなく、しっかり審査しましょう〉と言ったら設立委員会ができて、僕もそれに加わって、1学年40人の推薦枠ができた。その上で、内申点が45点満点で38点以上です」

 上田は「何しろ推薦入学組は、入ったときからキャッチボールがしっかりできるんですから」と笑いながら「野球部もガラッと変わったんです」と証言する。実際、2005年春の甲子園に出場。1962年の夏以来、43年ぶりだった。さらに、2008年春夏と甲子園に連続出場した。

 こうして慶応高校は「エンジョイベースボール」の旗を掲げて、復活した。

つづく

#2に続く
「選手起用が気に入らない、と言ってきた(笑)」慶応・森林監督の“ブレない球児時代と今”「僕は昭和の人間ですが…」上田誠前監督が明かす

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