酒の肴に野球の記録BACK NUMBER
「慶応高校と言えば茶髪ピアス、野球部は合コン」消えかけた古豪と“スパルタ式”前監督が大変身…43年ぶり甲子園出場を果たすまで
posted2024/07/13 11:00
text by
広尾晃Kou Hiroo
photograph by
JIJI PRESS
「慶応高校が優勝してから、ずっと電話で追いかけまわされているんです。スポーツ紙とか、テレビとか。もう大変ですよ。〈森林、やってくれたな〉って思っています」
昨秋、話を聞いた慶応義塾高校前監督の上田誠氏は嘆いてみせた。もちろん、顔は喜びにあふれている。
2023年夏の甲子園を制した慶応義塾高校の森林貴彦監督は、上田の教え子である。「エンジョイベースボール」を掲げて今の慶応義塾高校野球部の礎を築いたのは上田に他ならない。メディアが追いかけまわすのも無理はない。
かつての慶応大はスパルタ式だった
筆者は少年野球の現場や野球指導者の会合など、様々な場所で上田にお目にかかった。上田は少年野球の現状に危機感を抱き、指導者や野球界に耳の痛い直言を続けてきた。つまり反骨の野球指導者なのだ。そんな上田は、どのような経歴を歩み、その野球哲学を育んだのか。じっくりと聞いてみた。
「小学4年くらいから野球を始めて、中学は学校の部活です。高校は公立の神奈川県立湘南高校で、一浪して慶応義塾大学に入りました。投手でしたが、大したことなくて、そのうえ股関節を悪くして、新人選手の面倒を見る役回りになって『教える面白さ』が分かってきました」
しかし当時、慶応義塾大学の雰囲気は、いわゆるスパルタ式だったという。上田は「大学の4年間、これは違うのではと感じていた」そうで、このように続ける。
「卒業後は教職免許を取るために大学に引き続き通って、桐蔭学園に就職し、野球部の副部長になりました。ここは慶応よりも、もっとすごかった。僕が通った湘南高校は、監督も『自分で考えてやれ』という方でしたから、練習時間もそれほど長くはなかったのですが、桐蔭は朝3時半から練習です。こうなったら、授業中は寝るしかない。
僕は、いかに短い時間で効率よく練習をして実力をつけるかが大事だと思っていたので、これは違うと思った。県立の厚木東高校に移って指導しているうちに、慶応高校の監督のなり手がなく、地区予選も勝てない状態だということだったので、監督をお引き受けすることにしました」
高校野球のやり方に染まって、すごく怒られた日
慶応の監督を紹介したのは、当時の慶応義塾大学野球部監督である前田祐吉監督だった。