近鉄を過ぎ去ったトルネードBACK NUMBER
ドジャースは野茂英雄のことばかり聞く日本メディアをどう受け入れた? 親日球団の原点…ラソーダ監督「センイチ・ホシノは俺のブラザーだ」
text by
喜瀬雅則Masanori Kise
photograph byAFLO
posted2024/07/11 11:03
ドジャース・野茂英雄とトミー・ラソーダ監督。野茂のことばかり質問する日本メディアに対しラソーダ監督やチームスタッフは…
「野茂はエースだ。先発投手のリーダーだ。マルティネスは、投手陣全体のエースだ」
その“使い分け”も、ラソーダ特有の人心掌握術なのだろう。
ドジャース「多国籍軍」の歴史
人種の壁を越え、チームをまとめ上げる。それが、ドジャースという球団の歴史と、独特なチームカラーでもあった。遡れば、黒人初のメジャーリーガー、ジャッキー・ロビンソンがプレーしたのに始まり、1981年には史上初の新人王とサイ・ヤング賞のダブル受賞を達成したメキシコ出身の左腕、フェルナンド・バレンズエラが「フェルナンド・マニア」と呼ばれる熱狂的なファンを生んだ。
野茂が入団する前年、1994年には韓国人の朴賛浩が、韓国のプロ野球を経験しないままドジャースと契約。1995年も、先発ローテーションには野茂をはじめ、ドミニカ共和国出身のラモン、メキシコ出身のバルデス、アメリカ出身のトム・キャンディオッティ、ケビン・タパニらが名を連ね、当時の先発ローテは「多国籍軍」とも呼ばれていた。
だから、日本人の記者がその“多人種”の中に入っても、居心地は決して悪くなかった。それどころか、スタッフや選手、駐車場のゲートのおじさん、プレスルームでケータリングのお世話をしてくれる女性スタッフに至るまで、いつもフレンドリーに接してくれた。
ドジャースを追いかける日々は、日本とはほぼ昼夜逆転となる時差ゆえに、寝入りばなに原稿に関する会社からの問い合わせが入るなど、もちろん苦労も多かった。しかし、取材全般に関しては、こうやって30年近い年月が過ぎ、改めて振り返ってみても、ドジャースタジアムから見える、あの澄んだ青い空の光景とともに、楽しい思い出しか残っていない。
少々、個人的な話が過ぎた。シーズンの戦いに戻ろう。
<つづく>