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ドジャースは野茂英雄のことばかり聞く日本メディアをどう受け入れた? 親日球団の原点…ラソーダ監督「センイチ・ホシノは俺のブラザーだ」 

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喜瀬雅則

喜瀬雅則Masanori Kise

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posted2024/07/11 11:03

ドジャースは野茂英雄のことばかり聞く日本メディアをどう受け入れた? 親日球団の原点…ラソーダ監督「センイチ・ホシノは俺のブラザーだ」<Number Web> photograph by AFLO

ドジャース・野茂英雄とトミー・ラソーダ監督。野茂のことばかり質問する日本メディアに対しラソーダ監督やチームスタッフは…

 野茂が報道陣をブルペンから遠ざけたときも、私たちを気遣ってくれたのだろう。

「いつも通りのブルペンでのピッチングだった。100%だったよ」

 ウォーレスが公開してくれる情報は、それこそ原稿の“核“になった。

 母国語が英語ではない選手とも、お互いに決して流暢ではない英語を駆使して、一生懸命に会話を成立させたものだった。野茂の“周辺ネタ”をよく教えてくれたのは、メキシコ出身の22歳、イスマエル・バルデスだった。

「ハーイ、ノモ。おりゃー、しばくぞ」「あっち行け、バルデス。ゴー・アウト」

二枚舌?のラソーダ「エース論」

 謎の2人の会話は、ロッカーでリラックスする野茂の違った一面を伝えるエピソードとしても、しょっちゅう紙面で使わせてもらった。

 ドミニカ共和国出身、1m93cmの長身右腕のラモン・マルティネスも、決して英語が堪能ではなかった。だから、会話のスピードがネイティブに比べて、かなりスローだ。そのお陰で、私にもよく聞き取れた。互いに一生懸命伝え合おうとするから、むしろ、しっかりと聞き取れたりする。

 ラモンは1995年に17勝を挙げ、7月14日にはノーヒットノーランを達成していた。右腕の振りが鞭のようにしなやかだったのが、強く印象に残っている。実弟はサイ・ヤング賞を3度獲得したレッドソックス(1995年当時はエクスポズ所属)の剛腕、ペドロ・マルティネス。当時27歳で後にメジャー通算135勝を挙げた好投手は、こう語っていた。

「スプリング・トレーニングのときに、ラソーダから“エースだ”って言われた。若いやつらに、何かを教えられるようになってくれ、と言われてやってきたんだよ」

 エースの自覚とプライドが、にじみ出ていた。

 一方、ラソーダは常に私たちに「野茂はウチのエースだ」と言い続けていた。これもおそらく、日本人向けのリップサービスなのだろう。しかし、ラモンにこう言って野茂にも同じように言うのか? さすがに、原稿の辻褄が合わなくなってくる。

 思い切って、ラソーダに聞いてみた。

【次ページ】 ドジャース「多国籍軍」の歴史

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