近鉄を過ぎ去ったトルネードBACK NUMBER

野茂英雄が監督と“衝突”「300球投げなアカン」「またそんな話ですか?」メジャー挑戦の1年前“近鉄で起きていた事件”「露骨にイヤな顔を…」

posted2024/05/02 11:02

 
野茂英雄が監督と“衝突”「300球投げなアカン」「またそんな話ですか?」メジャー挑戦の1年前“近鉄で起きていた事件”「露骨にイヤな顔を…」<Number Web> photograph by BUNGEISHUNJU

握手を交わす野茂英雄と鈴木啓示監督の名投手ふたり。近鉄最終年の1994年、取材していた番記者が見たのは…

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喜瀬雅則

喜瀬雅則Masanori Kise

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 1995年5月2日、野茂英雄がメジャー初登板を果たしてから29年が経つ。ポスティングシステムもない当時、プロ6年目に突入する野茂が1995年も日本でプレーすることは当然と目されていた。一体、その前年には何が起きていたのか。近鉄時代の番記者がメジャー挑戦に至るまでの「最後の一年」を振り返る――。【連載「近鉄を過ぎ去ったトルネード」第1回】

野茂はどないしとるねん?

 私が初めてプロ野球球団の「番記者」になったのは、サンケイスポーツ新聞での入社5年目、1994年の近鉄バファローズだった。

 当時、常夏のサイパンで行われていた2月のキャンプインに備え、暑さ慣れと称し、1月下旬から先乗りして自主トレを行っていた主力選手たちに、南の島で挨拶をすることから猛牛番の仕事はスタートした。

 野茂英雄とのファーストコンタクトは、正直言って、ほとんど記憶がない。

 当時プロ5年目。ルーキーイヤーから18、17、18、17と勝ち星を積み上げ、4年連続最多勝。体を大きく捻って剛球を投げ下ろし、宝刀フォークでバットに空を切らせる。その豪快な投球で日本球界を席巻していた「トルネード」は、最多奪三振のタイトルも同じく4年連続で獲得。近鉄はもちろん、日本を代表する右腕の一人だった。

 番記者に対して口数が少なく、見出しになるような、気の利いたネタを提供してくれるタイプでもない、いわゆる“記者泣かせ”と呼ばれる存在だった。それでも、会社からは必ずと言っていいほど「野茂」の話題が要求された。原稿の打ち合わせのため、会社に電話を入れ、他の選手の名前を挙げても、受話器の向こうからは「野茂はどないしとるねん?」。

サイパンでの“初事件”

 これまでの取材の積み重ねがなく、新米番記者の引き出しにはネタのストックなど全く入っていない状態だった。野茂にまつわる話をひたすら、必死に探し回る日々だった。

 私がサイパンで遭遇した“初事件”は、キャンプ初日に起こった。

【次ページ】 質より量が問われた時代

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