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殺気立った兵士が棋士に「どこへいく!」二・二六事件で銃剣突きつけ、カップルは“密会の場”と勘違い…“不穏→のどかな”昭和の将棋会館史 

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田丸昇

田丸昇Noboru Tamaru

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photograph byNanae Suzuki

posted2024/04/29 17:00

殺気立った兵士が棋士に「どこへいく!」二・二六事件で銃剣突きつけ、カップルは“密会の場”と勘違い…“不穏→のどかな”昭和の将棋会館史<Number Web> photograph by Nanae Suzuki

長年にわたって名局の数々が繰り広げられた東京・将棋会館。移転前に知られざるエピソードを田丸昇九段が紹介する

 2階は数十畳もの大広間で、公式戦の対局やアマの大会に使われた。外観は団体本部というよりも、茶道や舞踊の大家が住む風雅な邸宅という趣があった。

 田丸が奨励会時代(1965年に入会)に2階の大広間で記録係を務めていると、昼間に向かいの鳩森八幡神社の部屋から雅な音曲がよく流れてきた。謡曲の稽古をする人たちがいて、三味線や鼓の音に乗って謡が聞こえてきた。それは昼下がりの対局室で何ともいえぬBGMとなった。それから玄関脇には卓球台が置かれ、棋士、奨励会員、連盟職員らが代わる代わる楽しんだ。だから、卓球の音もよく耳にした。

 今になって振り返ると――歓声やボールの音が対局室に響いて、対局者は気が散ったと思うが、文句を言う棋士はいなかった。当時は何かにつけて鷹揚だった。

男女が密会する旅館街だったのでカップルが…

 1970年代の千駄ヶ谷は、男女が密会する旅館街として有名だった。旧将棋会館も外観はそれに近いので、間違って入ってきたカップルもいたという。なお、会館の南側にかつてあった「松岡」という旅館は、戦前に外相を務めて国際連盟脱退を決めた首席全権の松岡洋右の私邸だった。

 1976年4月、現在の5階建てビルの将棋会館が建設された。それから48年、ほぼフル稼働して今日に至っている。工事や補修を重ねてまさに満身創痍だが、ある業者には「元気なおじいちゃん」と言われたものだ。

 田丸の個人的な思い出は、2001年から2003年までの2年間あまり、『将棋世界』編集長として地下の事務所に通って業務をこなしたことだ。順位戦の対局前夜に最終電車で帰宅、編集部員と雑誌の中身で激論、雑誌を共同作業で作り上げる棋士では得られない喜びなど、いろいろなことが浮かんでくる。

 なお『噂の真相』のコラムで、「部数が落ちて部員がやる気をなくしていて、田丸編集長が会議で一人で話して記事を書いている」と書かれた。だいたい事実だが、内部の話がなぜ伝わったのだろう……。

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