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「かかる暴挙は承認しない」“絶縁された自称名人”阪田三吉との将棋を「まかりならぬ」と言われようが…なぜ木村義雄は熱望したか

posted2024/02/11 06:02

 
「かかる暴挙は承認しない」“絶縁された自称名人”阪田三吉との将棋を「まかりならぬ」と言われようが…なぜ木村義雄は熱望したか<Number Web> photograph by Kyodo News/BUNGEISHUNJU

阪田三吉と木村義雄。交わることのなかったはずの大棋士2人が相まみえるまでに至った経緯とは

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田丸昇

田丸昇Noboru Tamaru

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 87年前の昭和12年(1937)2月。伝説の棋士・阪田三吉と名人候補の木村義雄八段が京都の南禅寺で対局し、「世紀の一戦」として社会的にも注目された。

 阪田が大正時代後期に名人を自称して東京の中央棋界から絶縁された事情、昭和10年に関根金次郎十三世名人が勇退して実力名人戦が創設、阪田と木村が対局するに至った経緯などについて、田丸昇九段が前編で振り返る。【敬称略、棋士の肩書は当時。全2回/後編も】

阪田が大いに不満を抱いた“八段昇段問題”とは

 100年前の大正13年(1924)9月8日。関根十三世名人の「東京将棋倶楽部」、土居市太郎八段の「東京将棋同盟社」、大崎熊雄七段の「東京将棋研究会」の三派閥が合流し、統合団体の「東京将棋連盟」が結成された。名誉会長に関根、会長に土居、副会長に大崎らが就いた。昭和2年には関西の木見金治郎八段の「棋正会」が加入し、今日の「日本将棋連盟」に改称された。

 有力棋士たちが派閥を作って群雄割拠していた時代から、棋界統一の基礎がようやく築かれた。

 ところが、八段昇段問題で思わぬ波紋が生じる。

 東京将棋連盟は大正13年秋に大崎七段、金易二郎七段、花田長太郎七段、木見七段の八段昇段を発表した。当時の八段は準名人の格で、関根、土居、阪田三吉の3人だけだった。それが倍以上の計7人に増えたので、乱造ではないかとの声が上がった。中でも関西の阪田は大いに不満を抱いた。

 大阪府出身の阪田は草履職人の仕事に身が入らず、賭け将棋ばかり指していた。関西では無敵と怖れられていたが、20代半ばに遊歴中の関根四段と対戦して敗れて「井の中の蛙」を思い知った。それから10年後、阪田は「ほんまの将棋指しになる。日本一になったる」と宣言して上京。関根ら高段棋士と対戦し、独自の力将棋で奮闘した。

 大正4年に八段に昇段した阪田は、その2年後に関根八段に勝って次期名人の有力候補となったが、関根の弟子である土居七段に敗れてその可能性は消えた。大正10年に関根が十三世名人に就位すると、阪田は「棋歴、名声ともに順当」と語って関根を推した。没後に映画や歌謡曲の主人公になったほどの人物である。

阪田の“名人自称”を招いたのは関西の有力者だった

 4人の八段昇段について猛反対したのは、阪田を後援する関西政財界の有力者と大阪朝日新聞社だった。関根らの中央棋界とは以前からもともと対抗していた。

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