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殺気立った兵士が棋士に「どこへいく!」二・二六事件で銃剣突きつけ、カップルは“密会の場”と勘違い…“不穏→のどかな”昭和の将棋会館史 

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田丸昇

田丸昇Noboru Tamaru

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photograph byNanae Suzuki

posted2024/04/29 17:00

殺気立った兵士が棋士に「どこへいく!」二・二六事件で銃剣突きつけ、カップルは“密会の場”と勘違い…“不穏→のどかな”昭和の将棋会館史<Number Web> photograph by Nanae Suzuki

長年にわたって名局の数々が繰り広げられた東京・将棋会館。移転前に知られざるエピソードを田丸昇九段が紹介する

 1947年4月にはある実業家の支援を受け、小石川区春日町の「後楽園球場」スタンド下の部屋を借用できた。連盟本部を復活させて対局を行い、アマ向けの道場も設けた。ただ寝具はなくて宿泊できないので、大半の対局者は深夜まで指して(持ち時間は各7時間)徹夜で局後の検討を行い、朝になって帰ったという。

 後楽園球場は戦後の一時期にGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に接収された後、1946年からはプロ野球や大学野球が行われていた。当時のプロ野球は1リーグ制で、読売ジャイアンツ、大阪(阪神)タイガース、東急フライヤーズ、南海ホークス、中日ドラゴンズなどが試合をした。

中野駅近くにあった会館が千駄ヶ谷に移転したワケ

 1949年7月、連盟は将棋を愛好したある実業家の口利きで、中野区昭和通りの2階建ての建物を購入し、初めて持ち家の将棋会館を得た。そこは第38代横綱の照国の相撲道場で、墨田区両国に部屋を新設したので出ることになった。下見をしたある棋士は、大柄の力士たちがいて狭く感じたそうだが、実際に移ってみると広かった。連盟は自己資金では足りないので、全国の将棋ファンに寄付金を募ったところ、予想以上に集まったという。

 中野の本部は中央線・中野駅から北東方向に徒歩10分あまり。多くの棋士が中野周辺や中央線沿線に住んだ。駅の近くのある寿司屋は、棋士たちのたまり場となった。

 やがて、棋戦や棋士が増えてくると次第に手狭になってきた。都心にある新聞社との連絡や往復も不便だった。

 1957年に連盟会長に就任した加藤治郎八段は、都心に近いところに本部を移転させることに尽力した。そして、現在の将棋会館がある千駄ヶ谷の土地が見つかった。徳川家の馬場跡だったところ。実は徳川家と千駄ヶ谷は縁が深かった。江戸時代末期に将軍家に嫁いだ天璋院(NHK大河ドラマ『篤姫』のヒロイン)は、江戸幕府が崩壊すると千駄ヶ谷の徳川宗家の邸で暮らしていた。

田丸九段が奨励会時代に見聞きした“昭和の記憶”

 1961年6月、千駄ヶ谷に木造2階建ての旧将棋会館が建設された。そのときは自己資金と将棋ファンの寄付金では足りず、連盟は各新聞社から融資を受けたという。

 東京オリンピックが開催される直前の1964年夏。私こと田丸(当時14歳)は小中学生の大会に参加するために将棋会館に初めて行った。白壁が落ち着いた雰囲気をかもし、1階の道場から聞こえてくる駒音が心地よかった。玄関を入ると中庭が見えるロビーがあり、その先に特別対局室があった。

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