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「病弱な升田幸三の前でわざと“大食漢”」「名人戦で負けたのに中原誠を激励」50期連続タイトル戦出場…大山康晴の盤上・盤外勝負術がスゴい
posted2023/11/29 11:01
text by
田丸昇Noboru Tamaru
photograph by
Masahiko Ishii
戦後まもない1946年(昭和21)5月。名人戦の予選リーグに当たる「順位戦」の対局が始まった。従来の段位主体の制度を撤廃し、ABCのクラスで棋士を査定する新たな制度が導入された。
第1期順位戦には、関西の木見金治郎八段門下の大山康晴六段と兄弟子の升田幸三七段がB級で出場した。升田は12勝2敗でA級に昇級し、大山も11勝3敗の好成績だったがB級に留まった。
A級で優勝した塚田正夫八段は、1947年の名人戦で木村義雄名人に挑戦して4勝2敗で破り、塚田新名人が誕生した。
常勝将軍と呼ばれた無敵の木村がついに敗れた。しかし「技術で負けたとは思わない。短時間将棋に対する不慣れが敗因だ。この制度を修業してA級でやり直す」と語り、名人復位を誓った。
大山と升田の立場の違いによって微妙な関係に
戦前の名人戦は、3日制・持ち時間は各15時間だった。戦後まもない名人戦は、物資が不足して対局場の設営が難しい事情によって、1日制・持ち時間は各8時間に短縮された。大山は戦前の1942年に師匠の木見八段の推挙で毎日新聞社の嘱託に就いた。升田も1943年に病没した大棋士の後任として朝日新聞社の嘱託に就き、新聞社が有力棋士をその身分に遇することは昔からあった。
大山と升田は立場の違いが生じ、後年に微妙な関係になった。
第2期順位戦は、A級の升田八段が11勝2敗で優勝した。本来なら塚田名人への挑戦者になるところだ。しかし1年前に規約改正がされていたため、升田、A級2位・3位の棋士、B級1位の大山七段の4人で挑戦権を争うことになった。A級の成績上位者やB級の逸材にもチャンスを与えるという趣旨だった。当時の名人戦主催者は毎日新聞社で、升田は「毎日新聞は大山に都合の良い規定を作ったのだろう」と憤慨した。
挑戦者決定三番勝負は、升田と勝ち抜いた大山が対戦した。1勝1敗で迎えた第3局は、升田が終盤で勝ち筋になったが、軽率な一手を指して逆転負けを喫した。升田は直後に「錯覚いけない、よく見るよろし」と、おどけるように嘆いた。
29歳での新名人…「箱根越え」を果たした
1948年の名人戦で大山八段は塚田名人に初挑戦し、2勝4敗で敗退した。