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殺気立った兵士が棋士に「どこへいく!」二・二六事件で銃剣突きつけ、カップルは“密会の場”と勘違い…“不穏→のどかな”昭和の将棋会館史
posted2024/04/29 17:00
text by
田丸昇Noboru Tamaru
photograph by
Nanae Suzuki
日本将棋連盟は今年の秋に創立100周年を迎える。その記念事業として、東京・千駄ヶ谷の将棋会館は駅前に建設中の新しいビルに移転する。
そこで、過去の将棋会館(連盟本部)の変遷やエピソードを紹介する。戦前は陸軍の青年将校が起こしたクーデター事件の余波を受け、さらには空襲によって本部が焼失する事態にもなった。戦後はプロ野球、大相撲、徳川家の馬場跡と、なぜかスポーツと歴史に縁があった。一連の経過を田丸昇九段が解説する。【棋士の肩書は当時】
二・二六事件の日も通常通り対局が始まったが
日本将棋連盟が創立されてから11年後の1935(昭和10)年8月。連盟は東京市赤坂区青山北町に敷地180坪の本部事務所を賃貸で設置し、12間の和室で公式戦の対局が可能になった。同年5月に創設された「実力名人戦」(現・毎日新聞社が主催)の多額の契約金によって、連盟財政が豊かになっていた。
1936年2月26日未明。陸軍の青年将校が下士官や兵を率いて、首相や閣僚らの政府要人を襲撃した「二・二六事件」が勃発した。当日は早朝から不穏な空気が漂い、路上の随所に決起部隊の兵士が守備に立っていた。
青山の連盟本部では対局が通常どおりに始まったが、対局者は市街戦が起きるという怪情報に平静さを失った。
日露戦争に出征したことがある大崎熊雄八段は「弾丸が飛んで来ようが、将棋指しは盤に向かうのが本分じゃ。さあ続けよう」と言って動じなかった。しかし、政府要人が殺害された事態が判明すると、将棋どころではなかった。昼過ぎに対局は中断された。
また、当日の朝に麹町の辺りを歩いていたある棋士は、殺気を帯びた決起部隊の兵士に「どこへいくか」と銃剣を突きつけられた。「この近くで将棋の対局が行われていて、観戦にいくところです」と答えると、羽織袴の和服姿を信じられて通行を許可されたという。
連盟本部はその後、赤坂区青山表町、麹町区一番町、小石川区小日向台町と移転した。そして1945年5月の空襲によって、小石川の本部は焼失した。貴重な資料や文献を収めた土蔵も直撃弾で灰燼に帰した。
戦後まもなくは後楽園球場スタンド下の部屋を
戦争が終わると、将棋界は復興の第一歩を踏み出した。
戦災を免れた目黒区の金易二郎八段、渡辺東一八段の自宅を連盟仮本部とした。1946年に創設された順位戦の対局は、将棋を愛好した会社社長の屋敷、麻布の寺院、下宿屋の2階などで行った。当時は記録係も不足していて、対局で前日に上京した大山康晴七段が臨時で記録係を務めたことがあった。