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大相撲PRESSBACK NUMBER
「ちゃんこの味で言い合いに」「おかみさんを突き飛ばして失踪」優勝せずに横綱昇進、24歳で廃業…“消えた天才”北尾光司の知られざる実像
text by
荒井太郎Taro Arai
photograph byKYODO
posted2024/03/15 11:02
1987年12月31日、「廃業」の記者会見を行う横綱・双羽黒こと北尾光司。大相撲の未来を背負うはずだった大器は24歳の若さで角界を去った
「ちゃんこの味」をめぐっての言い合い、そして失踪
大関3場所目には初日から10連勝で単独トップに立ち、初優勝のチャンスが訪れたが、横綱・千代の富士との千秋楽相星決戦に敗れて涙を飲んだ。続く名古屋場所も10戦勝ちっぱなしと突っ走り、11日目に土がついたものの1敗のまま全勝の千代の富士を追いかけ、千秋楽の直接対決を制して優勝決定戦に持ち込んだが、またもや念願の初賜盃には一歩及ばず。
12勝の準優勝、14勝の優勝同点というやや甘い成績ながら、当時は千代の富士の一人横綱が続き、保志(のちの北勝海)が大関昇進を確実にしていたため、前例のない6大関に膨れ上がるという状況も大器を後押ししたと思われる。場所後の横綱審議委員会では心技体の「心」の部分が問題視され、一委員が「天皇賜盃を一度も手にしたことがない力士が横綱になるということは、相撲の国技たるゆえんを軽んずるものではないか」と異を唱え、全会一致とはならなかったが、将来性に免じて第60代横綱に推挙されることになった。
昇進を機に四股名も本名の北尾から、所属する立浪部屋が生んだ双葉山、羽黒山の2横綱に因み「双羽黒」に改名した。当時の春日野理事長(元横綱・栃錦)が名付け親であったが、それだけ22歳の新横綱には部屋や一門を超え、協会全体の期待が懸かっていた。
横綱昇進後も千代の富士とは3度にわたって千秋楽まで優勝を争うも、いずれも厚い壁に跳ね返された。「心」の成長が課題とされた青年横綱だったが、1987年の秋巡業中に付け人6人が“集団脱走”する騒ぎを起こすと、同年末には自身が失踪。ちゃんこの味をめぐって言い合いとなり、部屋のおかみさんを突き飛ばして出て行ったとされた。
師弟関係はもはや修復不可能だった。度重なるトラブルの末、大晦日に師匠(元関脇・羽黒山)から廃業届が提出され、未完の横綱は24歳の若さで一度も幕内優勝を遂げることなく角界を去った。