「広岡達朗」という仮面――1978年のスワローズBACK NUMBER
「ガソリンスタンドで打撃特訓、合気道の教えも…」広岡達朗の“まるでマンガ”な指導は有効なのか? 広岡ヤクルトの申し子・水谷新太郎の証言
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph bySankei Shimbun
posted2024/02/21 17:02
2013年のヤクルト浦添キャンプで山田哲人を指導する広岡達朗。教え子のひとりである水谷新太郎が、知られざる広岡の手腕について証言した
「広岡さんから、藤平先生のビデオを見せてもらったことがあります。手を触れずに相手を投げ飛ばす映像です。最初は“そんな馬鹿な……”という思いもあったんですけど、物事には重力があって、何事も上から下に落ちていくもの。だから頭ではなく丹田に意識を持つこと、浮足立つことなく最下点である足の裏を意識することは、野球においても役に立ったと思います」
直接、技術向上に役に立つかどうかは半信半疑だった。しかし、広岡の言うように「臍下の一点に気を鎮める」ことによって、気持ちが落ち着き、安定してプレーできるようになったという実感があった。水谷はその後も長きにわたって、「落ち着きたいときには丹田を意識するようになった」という。
ヒルトンが加入も「守備では負ける気がしなかった」
広岡が監督となり、少しずつ水谷の出場機会が増えていく。指揮官が自分に期待していてくれることも理解していた。プロ7年目、24歳となる78年は勝負の年となった。しかし、「今年こそレギュラーに定着を」と意気込んで臨んだユマキャンプにおいて、水谷は左太もも裏を肉離れしてしまう。
「何とか治してオープン戦に出場したんですけど、そこでも捻挫をしてしまってスタートダッシュで出遅れてしまいました。プロ7年目を迎えていて、守備に関しては自信が芽生えてきていました。だから、“ケガさえ治ればある程度はやれるだろう”という思いはあったんですけど……」
この年、正遊撃手候補としてデーブ・ヒルトンが加入した。しかし、故障の癒えた水谷はライバルとのレギュラー争いに勝利する。水谷から白い歯がこぼれる。
「一応、当初はヒルトンがショートでしたけど、いかんせん彼は下手くそでしたから(苦笑)。僕は広岡さん、武上(四郎)、丸山(完二)両コーチに鍛えられていたので、守備では負ける気がしなかったです」
開幕前に出遅れてしまった。それでも、コンディションが戻ることによって、水谷の才能はようやく開花しようとしていた。バッティングにはまだ難があった。しかし、78年のスワローズは若松勉、大杉勝男、チャーリー・マニエル、さらにヒルトンが打ちまくっていた。「守り勝つ野球」を標榜していた広岡にとって、堅実な守備が期待できる水谷は貴重な存在だった。