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甲子園スターが経験した“陰湿なイジメ”と“父との絶縁”…やまびこ打線「恐怖の9番打者」が語る波乱万丈の人生〈息子も甲子園出場、現在はIT社長〉
posted2024/02/09 11:03
text by
田中耕Koh Tanaka
photograph by
Yuki Suenaga
「高校が決まってうれしかったのは、親父と離れて、あの生活から逃れられることだった」
池田は寮生活だった。朝食、夕食が毎日、用意されている。幼い頃から父が家に帰ってこなかった山口にとって、食事が当たり前にある生活は初めてだった。
これで存分に野球に打ち込める。しかし、甘かった。淡い期待は、蔦監督から打ち砕かれることになる。
“鉄拳制裁”を耐えた理由
1年夏の新チームから3番ショートのレギュラーをつかんだが、練習試合でダブルヘッダーをした時だ。1試合目に負けると、相手チームが弁当を食べている間、1時間は走らされる。2試合目も負けると、2、3時間は走らされる。
寮もレギュラーは10畳の2人部屋。補欠は2段ベッドが二つ入った部屋と格差をつけられていた。しかも、試合で打てなかったりミスしたりすれば、部屋を入れ替えられる。常に競争心をあおられる。そしてあの当時、監督や先輩からの鉄拳制裁は当たり前だった。
「ずっと、いつ辞めようかなと。でも練習がきつくて辞めようとは思わなかった。何が嫌だったのかな……監督があんまり好きじゃなかったのかな(笑)。それに辞めたらあの親父との生活が待っていたから」
父と蔦監督。それぞれとの生活を天秤にかけ、山口は池田で野球を続けることを選んだ。日に日に蔦監督の恐ろしさを実感する毎日でも、あの暮らしに戻るよりはましだと思えた。
蔦監督の練習は、常に甲子園を意識するものだった。例えば夏休みになると、対戦相手を変えて3日間連続で練習試合を行う。準々決勝から決勝まで、3日間試合が続く甲子園を想定した練習だった。
実は、甲子園で早実に大差で勝利できた裏にも、蔦監督の巧みな読みがあったのだと山口は言う。