Sports Graphic Number MoreBACK NUMBER

甲子園スターが経験した“陰湿なイジメ”と“父との絶縁”…やまびこ打線「恐怖の9番打者」が語る波乱万丈の人生〈息子も甲子園出場、現在はIT社長〉 

text by

田中耕

田中耕Koh Tanaka

PROFILE

photograph byYuki Suenaga

posted2024/02/09 11:03

甲子園スターが経験した“陰湿なイジメ”と“父との絶縁”…やまびこ打線「恐怖の9番打者」が語る波乱万丈の人生〈息子も甲子園出場、現在はIT社長〉<Number Web> photograph by Yuki Suenaga

現在はIT会社「VENE BASE」の代表取締役社長を務める山口博史さん(59歳、2023年撮影)

 野球部を辞めると、特待生としての扱いもなくなり、大学に通うためには授業料を払わなければいけなくなった。生活費も必要だった。もちろん、父には頼れない。授業がない昼間には警備、夜は飲食店でバイト漬けの日々を送った。

「ずっと野球しかしてこなかったから、辞めてから何をするのか、バイトしながらずっといろいろ考えて。日本っていうのはどんなところなんだろうか、とか……」

 無事に4年間で卒業した後、親戚がいる大阪でしばらくお金を稼ぎ、京都に向かった。そこで着物の染付けの仕事を始めた。

 実際に色付けをして、思った通りに染まっていく着物を見ることは爽快だった。

「手に職を持とうとして始めたんだけどね。朝から昼までそこで働いて、夜は焼肉屋でバイトして……」

 そんな生活も長続きするものではないと分かっていた。

「バイト先で言われるわけですよ。『ここにいつまでもいちゃダメだぞ。お前はもう長すぎる』って」

 自分が本当にやりたいことは何か。一人で暮らす京都で自問自答する中で、いつしか「日本の文化を発信したい」という気持ちが芽生えていた。そのために自分ができることを考えていくと、「システム作り」という答えに行き当たった。

 山口はもともと理系の世界に興味があった。九産大の時は、ロケットを作る先生に関心を寄せていた。そうと決まると、行動は早かった。コンピューターやシステムの本をむさぼり読んだ。システム開発の会社が東京に一極集中していることがわかると、すぐに上京した。就職雑誌を買ってページをめくると、最初に目に飛び込んできた企業へ面接を受けにいった。

「もしかして、あの山口くん?」

 履歴書を見たその会社の面接官は、山口の経歴を見て矢継ぎ早に質問をしてきた。 

「池田高校って、あの徳島の?」
「えっ、野球をやってたの?」

 そう聞かれ、正直に言うかどうか迷ったが「やっていました」と応えると、「もしかして、あの山口くん?」と問いかけられた。

「あっ、はい……」

 面接を終えるとすぐに試験を受けた。感触は良かった。予想通り、結果は見事に合格、システム会社で働くことになった。

 当時の社員数は30人ほど。第二新卒扱いで入社した山口は、すぐさま頭角を現した。金融系のシステム畑を歩き、凄まじいスピードで変化する業界にも食らいついた。

「俺は昭和のガリガリ系だから、覚えるのに時間がかかるんですよ。家にも帰らずに、必死こいてシステムの土台を作っていた」

 試行錯誤しながら新たな道を歩みだした山口に不思議と野球がもたらす「縁」が、いつも手を差し伸べてくれた。

 入社して7年目の1995年。会社が福岡市に支社を設立することになり、その責任者を託された。博多区内にあるビルの一室にオフィスを構えようと、不動産業者に話をしにいくと、「社員50人もいないの。いやあ……」と言って突っぱねられた。再度訪問すると、今度は別の担当者が「池田の山口さんでしょ。決めましょうよ」と言って即決。しかも格安で借りることができた。この担当者は一つ年下の元高校球児。甲子園で活躍する山口のことをテレビで見て知っていたのだという。

 その後、支社の立ち上げに成功して東京へ戻ると、4年目には執行役員になった。システム開発全般を見る立場になり、業績を飛躍的に伸ばしていく。30年弱勤め上げた頃には、入社当初は3億円しかなかった売上が35億円にまで増えていた。

 その頃だった。胸の中でふつふつと燃え上がるものがあった。「自分で新しいことができる会社を立ち上げたい」

 そう思っていた時、池田と早実のOB会が開かれ、あの夏、早実のセンターを守っていた岩田雅之と再会した。

 岩田はプリント基板設計会社の社長になっていた。自然と意気投合した2人は、ひざを突き合わせて話し合い、山口は独立する道を探った。

 山口は数人で独立しようと考えた。ただ、彼らにもそれぞれの家庭があり、ゼロからのスタートとなれば、もちろんリスクも大きい。2年かけて導き出した答えは、岩田の会社に第二事業部を作るという方法だった。

 山口と、彼が連れて来たメンバーはそこで業務を遂行し、独立採算で事業を行う。2018年3月から始動した第二事業部は順調に業績を伸ばした。4年の月日が流れた時に第二事業部を独立させる話が、岩田との間で持ち上がり、双方合意のもと今の「VENE BASE」を立ち上げた。

【次ページ】 長男が甲子園に出場、父との和解

BACK 1 2 3 4 NEXT
山口博史
池田高校
蔦文也
清宮幸太郎

高校野球の前後の記事

ページトップ