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甲子園スターが経験した“陰湿なイジメ”と“父との絶縁”…やまびこ打線「恐怖の9番打者」が語る波乱万丈の人生〈息子も甲子園出場、現在はIT社長〉
text by
田中耕Koh Tanaka
photograph byYuki Suenaga
posted2024/02/09 11:03
現在はIT会社「VENE BASE」の代表取締役社長を務める山口博史さん(59歳、2023年撮影)
早実との準々決勝が始まる前、甲子園は雨が降っていた。試合中止も有り得るような降り方で、開始時間の延長も決まった。1時間ほどが経った時、早実は「試合はない」と踏んで、宿舎に戻ってしまった。一方、過去の経験から「試合はある」と肌感覚で感じ取っていた蔦監督は、メンバーを連れて近くのグラウンドに向かい、練習するよう指示した。
「あの試合前の練習をしたか、しなかったかの差が出たんじゃないかと思う。甲子園を知り尽くしていた蔦先生の用意周到さが、勝利を手繰り寄せたのかもしれない」
蔦監督との日々は、甲子園優勝という最高の結果で幕を閉じた。しかし、卒業後の山口には、関門海峡を渡った先の世界で、これまで経験したことのない、いばらの道が待ち受けていた。
「あの9番打者だ」“特別扱い”が招いたイジメ
山口が進んだのは福岡市にある九州産業大だった。1983年のことだった。他の有名大学や社会人チームからも話はあったが、家計が苦しかった山口にとって、学費免除などの条件が一番よかったのが九産大だった。その進路は自分の意思とは関係なく、父に決められたものだった。
当時、甲子園で優勝した選手が九産大に進学する例は珍しかった。野球部に入部すると、すぐに指導者から気に入られ、夜になると繁華街を連れ回された。「こいつがあの恐怖の9番打者だ」と言って……。
もちろんそれは、山口が望んでやっていたことではないが、上級生や同級生からは「特別扱い」されていることをねたまれ、いじめられた。
「朝8時から練習が始まると、朝4時からグラウンド整備をさせられる。先に五寸釘をつけた木のトンボで、黒土の球場をかくんです。そうやって整備した後に、シートノックでイレギュラーをして先輩がとれなかったら呼び出されてね……」
それでも山口は2年間耐え続けた。なかには目をかけ、かわいがってくれる先輩もいたが、高校時代とは違い、とても野球を続けられる環境ではなかった。
3年になる前、限界を迎えた山口は退部を決意して、父に連絡をした。
「俺、野球を辞めるわ。徳島に帰りたい」
意を決した山口の訴えに、父の反応は冷ややかだった。
「何を言っているんだ。周りや親戚はみんな、いつお前が試合に出るんだと期待しているんだぞ。帰ってきて何するんだ!」
その時、心の中で、「プチっ」と何かが切れる音がした。父と山口のベクトルは決定的に、真逆の方向に向いていた。
「俺はプロ野球選手になろうなんて、一度も思ったことがなかった。そもそも、野球で高校や大学に進むという考えもなかった。だから、親父にあんなこと言われて意地になったね。これからは自分で生きるって……」
それ以来、山口は父との連絡を断った。