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甲子園が震えた「恐怖の9番打者」“IT社長”になった今だから話せる、名将・蔦監督の逆鱗に触れたあの日…「9番は懲罰打順だった」
posted2024/02/09 11:02
text by
田中耕Koh Tanaka
photograph by
Katsuro Okazawa/AFLO
明治神宮野球場と国立競技場が見渡せる東京都渋谷区神宮前。瀟洒なビルが建ち並ぶ一角にあるIT会社「VENE BASE(ベネベース)」は、昨年4月に設立されたばかりの会社だ。
オフィスに足を踏み入れると、真新しい空気が流れていた。代表取締役社長を務める山口博史は、柔和な笑みを浮かべて椅子に座っていた。ジーパンにパーカーといったラフな格好で、IT社長の風格を漂わせる一方、かつて「恐怖の9番打者」と呼ばれ、全国にその名を轟かせたスラッガーの面影は、58歳になる今もはっきりと残っていた。
取材に入ると、山口は事前に送っていた質問項目iPadで確認しながら、時を1980年代へと戻し口を動かし始めた。そこで語られた物語は、何度も壁にぶつかりながらも、野球の縁に導かれていった男の波瀾万丈の「逆襲劇」だった――。
恐怖のどん底に陥れた「9番打者」
あの夏、甲子園は快音で揺れ動いた。1982年の全国高校野球選手権大会。草創期から守備力の高いチームが覇権を争う舞台で、池田(徳島)は高校野球の常識を覆した。公立校ながら猛打で全国の強豪校を次々と撃破し、頂点に上り詰めた「やまびこ打線」は、中軸にのちにプロでも活躍する畠山準(元南海、大洋など)や水野雄仁(元巨人)がいた。
しかし、他校を震え上がらせたのは、打順に関係なく強打が続いたこと。その象徴がラストバッターの山口だった。ショートで全6試合に出場し、2試合連続本塁打を放つなど、対戦相手を恐怖のどん底に陥れたのだ。