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「命がけの勝負や」「父親が苦しみながら真剣に指す姿を…」1937年、阪田三吉66歳vs木村義雄31歳の「7日間対局」激闘の舞台裏

posted2024/02/11 06:03

 
「命がけの勝負や」「父親が苦しみながら真剣に指す姿を…」1937年、阪田三吉66歳vs木村義雄31歳の「7日間対局」激闘の舞台裏<Number Web> photograph by Tamon Matsuzono

阪田三吉と木村義雄の「伝説の7日間対局」の舞台となった京都・南禅寺

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田丸昇

田丸昇Noboru Tamaru

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Tamon Matsuzono

 87年前の昭和12年(1937)2月に伝説の棋士・阪田三吉と名人候補の木村義雄八段が京都の南禅寺で対局した「世紀の一戦」では、木村は負ければ名人を辞退する覚悟だった。阪田が意表を突く2手目の端歩、極寒の京都での7日間にわたる激闘と舞台裏、阪田の後の棋士人生などについて、シリーズの後編を田丸昇九段が振り返る。【敬称略、棋士の肩書は当時。全2回/前編も】

阪田の対局料は現代だと約3000万円の貨幣価値

 阪田三吉八段は大正14年(1925)に名人を自称し、暴挙と断じられて中央棋界から絶縁された。その後、孤高の存在として沈黙し続けていた。そんな阪田を復帰させたい動きがあった。

 読売新聞の将棋記者の菅谷北斗星は、10年がかりで阪田を説得し、表舞台で対局する了解を昭和11年に得た。読売は、阪田と木村義雄八段、花田長太郎八段との特別対局を企画した。将棋大成会(当時の日本将棋連盟の名称)は、両者が実力名人戦の八段リーグで好成績を挙げて、有力な名人候補になっていることから拒否した。しかし木村らが「大成会を脱退しても指したい」と強い覚悟を示すと、分裂を怖れて仕方なく了承した。

 読売新聞は阪田の特別対局が正式に決まった昭和11年12月、《将棋界空前の大手合 待望の巨人今ぞ起つ!》という見出しで大きく報じた。

 昭和12年2月5日。66歳の阪田(名人を返上して無段)と31歳の木村八段の対局が始まった。

 対局場は京都・東山の山裾にある臨済宗・南禅寺の境内の一角にある「南禅院」だった。

 対局に先立って、次のような条件が定められた。

(1)手合は平手(先手・後手は振り駒で決定)。
(2)対局日数は2月5日から11日までの7日間。
(3)持ち時間は各30時間。
(4)指し掛け(夕方に中断)の手番は交互。
(5)対局中は泊まり込みとして外出は禁止。
(6)老齢の阪田のために長女・タマエの付き添いを認める。
(7)関係者以外の立ち入りを禁止。

 手番は表向きは振り駒としたが、阪田に敬意を表して木村の先手番と事前に決められた。

 木村や本間爽悦七段の証言によると、阪田の対局料は現代の貨幣価値にすると約3000万円(2局分)と高額で、木村より数倍も多かったという。

「天下に恥じない将棋」「精魂を込める覚悟」

 両者は対局前に、次のような談話を述べた。

【次ページ】 阪田が2手目に指した“常識外の端歩”

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