誰も知らない森保一BACK NUMBER

「隣町の中学生20人が乗り込んできた」“やんちゃだった”森保一監督、地元・長崎でのケンカ未遂事件「森保は中2からスゴいリーダーでした」 

text by

木崎伸也

木崎伸也Shinya Kizaki

PROFILE

photograph byAFLO

posted2024/01/26 11:16

「隣町の中学生20人が乗り込んできた」“やんちゃだった”森保一監督、地元・長崎でのケンカ未遂事件「森保は中2からスゴいリーダーでした」<Number Web> photograph by AFLO

1993年10月のアメリカW杯アジア最終予選。“ドーハの悲劇”で森保一の名前を記憶しているファンも多いだろう

「うちの3年生と争いごとをするので、僕やチームメイトに助っ人に来てくれという相談でした。香焼中には身長が高くて、戦力になりそうなやつがいたんです。

 どうしたのかと聞いたら、仲間がボコボコにされるような一件があったと。『これじゃいかん』となり、3年生に向かっていくことになったと言っていました。

 普通だったら答えはノーなんですけど、森保の仲間を思う気持ちが痛いほど伝わってきた。『こいつを助けるべきじゃないか』と思った。ただ、すぐには結論を出せる話ではありません。一通り話を聞いたうえで『わかった。この件はちょっと預からせてくれ』と伝えて、森保たちを帰らせました」

「絶対に行っちゃダメだ」

 事態はここから急転する。

 その夜、岩本のもとに香焼中学校の担任と校長から電話がかかってきたのだ。

「どこかから話が漏れたのか、校長先生たちは助っ人を頼まれたことを知っていて、電話で『絶対に行ってはダメだ』と諭されました。深堀中の先生たちにも連絡が行ったようで、すでに大問題に発展していました」

 結局、岩本は学校からの制止を聞き入れ、助っ人に行かなかった。当然だろう。もはや子供の喧嘩の範疇を越えてしまっている。

 だが、それでも森保は筋を通したようだ。ほとぼりが冷めた頃、岩本は森保から事の顛末を聞いた。

「結果的には森保たちは3年生に向かって行ったらしいと。森保は自分のことでは怒らないのに、仲間のためならとことん戦う。その性格は今も変わっていないんじゃないかな。

 いまだに森保が地元に帰って来ると、当時の仲間や後輩がたくさん集まります。それはいま代表監督だからではなく、森保一という人間の魅力に惹きつけられてのこと。中学の時点ですでに素晴らしいリーダーでした」

 今回紹介したエピソードは学校教育的にNGで、中学生が絶対にマネしてはいけない話だ(また、1980年代半ばという時代背景があったことも付け加えておきたい)。

 少年・森保一は要求を突きつけるだけで、暴力に訴えるつもりはなかったかもしれない。

 ただし、リーダーシップという点にのみ着目するならば、すでに中2の時点で恐るべき感情のエネルギーとパワーを兼ね備えていたと言える。

 平時は「いい人」だが、有事になると感情を燃え上がらせて鋭い牙をのぞかせる。それが森保一というリーダーだ。

<続く>

【「誰も知らない森保一」​連載の一覧リストはこちらから】​

森保一(もりやす・はじめ)

1968年8月23日、静岡県生まれ。長崎県出身。1987年に長崎日大高を卒業後、マツダサッカークラブ(現・サンフレッチェ広島)に入団する。現役時代は、広島、仙台などで活躍し、代表通算35試合出場。1993年10月にドーハの悲劇を経験。2003年に現役引退後、広島の監督として3度のJ1制覇。2018年ロシアW杯ではコーチを務め、2021年東京五輪では日本を4位に、2022年カタールW杯ではベスト16に導いた

#3に続く
証言「森保のスパイクが隠されたり…」森保一監督、中学時代“陰湿イジメ”からの逆転人生「もう練習行かない」森保の父親が2度救った危機

関連記事

BACK 1 2 3
森保一
サンフレッチェ広島
V・ファーレン長崎

サッカー日本代表の前後の記事

ページトップ